2015年 02月 21日
初めて「坊っちゃん」を読む -2 |
2015年2月21日(土)
船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜ぬけ出して針のように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑くだ。おれには青嶋でたくさんだ。
この集英社発刊『漱石文学全集』は、昭和45年8月が初版だが、布製の立派な装丁の本である。この全集のもうひとつの魅力は、豊富な挿絵にある。しかも小説にごとに、その画家が異なる。この「坊っちゃん」は中村正義という画家で、”日本画壇の風雲児”と呼ばれた人で、異端的な作品を数々発表、日本画壇から激しいバッシングを受けた。この第二巻には「草枕」も掲載されていて、その挿絵は平山郁夫が担当している。すべてカラー刷りで、絵を見ているだけでも愉しい本である。
ここに出てくる”ターナー”とは、18世紀末から19世紀にかけてのイギリス・ロマン主義の画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーである。赤シャツが、幹が真直で上が傘のように開いた松を見て、ターナーのようだと言ったのは、彼の描いた「金枝」の絵を指している。主人公は知らないが、漱石はターナーの絵をどこかで見たことがあるのだ。
うらなりが、そんなに厭がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃ればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母っかさんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。すこぶる愉快だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯よりを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
読んでいて主人公の癇癪持ちだが、正直者で正義感の強い正確に魅かれる。山嵐もそれによく似た性格で好感が持てるし、うりなりもどこにでもよくいるようなお人好しな人物だ。それにひきかえ、信用のおけない嫌な奴、赤シャツ、野だいこ・・・まるで実社会にも、これとそっくりなのが居る、と思い思いしながら読み進めていく。そして、最後は読者をスカッとさせてくれる。
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上東京へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
小説「坊っちゃん」は、夏目漱石が高等師範学校の英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。何度も書くが、その松山東高校が、この春の選抜高校野球大会に昭和8年以来、82年ぶりに出場する。
山嵐は、漱石とほぼ同時期に松山中学に数学教師として着任していた渡部政和がモデルとされ、うらなりは、英語教師だった梅木忠朴が、赤シャツは、教頭だった横地石太郎が、野だいこは画学教師だった高瀬半哉がモデルとされている。また、清は、漱石の妻夏目鏡子の本名はキヨであるところからきているのか?
なお、坊っちゃんそのものは漱石自身ではなく、一説には漱石とほぼ同時期に松山中学の数学教師であった弘中又一がモデルの一人とされている。
弘中又一は、明治6年山口県周南市湯野に生まれ、同志社を卒業。21歳で、代用教員として山口の柳井小学校に勤務する。その後松山中学校に赴任し、同僚教師であった夏目漱石と知り合うことになる。そんな又一が「坊ちゃん」のモデルであることは、漱石の娘ムコの松岡譲の著書「ああ漱石山房」によっても知られている。実際、松山中学校時代の又一は、学生から「坊ちゃん」というあだ名をつけられていたという。
漱石の実際の松山中学赴任はわずか1年、坊っちゃんとしての教師生活は、ほんの1か月間ほどにすぎなかった。
船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜ぬけ出して針のように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑くだ。おれには青嶋でたくさんだ。
ここに出てくる”ターナー”とは、18世紀末から19世紀にかけてのイギリス・ロマン主義の画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーである。赤シャツが、幹が真直で上が傘のように開いた松を見て、ターナーのようだと言ったのは、彼の描いた「金枝」の絵を指している。主人公は知らないが、漱石はターナーの絵をどこかで見たことがあるのだ。
うらなりが、そんなに厭がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃ればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母っかさんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。すこぶる愉快だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯よりを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
読んでいて主人公の癇癪持ちだが、正直者で正義感の強い正確に魅かれる。山嵐もそれによく似た性格で好感が持てるし、うりなりもどこにでもよくいるようなお人好しな人物だ。それにひきかえ、信用のおけない嫌な奴、赤シャツ、野だいこ・・・まるで実社会にも、これとそっくりなのが居る、と思い思いしながら読み進めていく。そして、最後は読者をスカッとさせてくれる。
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上東京へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
小説「坊っちゃん」は、夏目漱石が高等師範学校の英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。何度も書くが、その松山東高校が、この春の選抜高校野球大会に昭和8年以来、82年ぶりに出場する。
山嵐は、漱石とほぼ同時期に松山中学に数学教師として着任していた渡部政和がモデルとされ、うらなりは、英語教師だった梅木忠朴が、赤シャツは、教頭だった横地石太郎が、野だいこは画学教師だった高瀬半哉がモデルとされている。また、清は、漱石の妻夏目鏡子の本名はキヨであるところからきているのか?
なお、坊っちゃんそのものは漱石自身ではなく、一説には漱石とほぼ同時期に松山中学の数学教師であった弘中又一がモデルの一人とされている。
弘中又一は、明治6年山口県周南市湯野に生まれ、同志社を卒業。21歳で、代用教員として山口の柳井小学校に勤務する。その後松山中学校に赴任し、同僚教師であった夏目漱石と知り合うことになる。そんな又一が「坊ちゃん」のモデルであることは、漱石の娘ムコの松岡譲の著書「ああ漱石山房」によっても知られている。実際、松山中学校時代の又一は、学生から「坊ちゃん」というあだ名をつけられていたという。
漱石の実際の松山中学赴任はわずか1年、坊っちゃんとしての教師生活は、ほんの1か月間ほどにすぎなかった。
by kirakuossan
| 2015-02-21 13:01
| 文芸
|
Trackback(1)
Tracked
from dezire_photo..
at 2015-07-16 19:02
タイトル : 光の天才?印象派の先駆者?魂の叫び?・・・ターナーの魅力
ターナー展Joseph Mallord William Turner 18世紀末から19世紀のイギリスのロマン主義の画家で、イギリスを代表する国民的画家ターナーの私の知る限りでは最大の大規模な回顧展が、東京都美術館で開催されました。... more
ターナー展Joseph Mallord William Turner 18世紀末から19世紀のイギリスのロマン主義の画家で、イギリスを代表する国民的画家ターナーの私の知る限りでは最大の大規模な回顧展が、東京都美術館で開催されました。... more