2015年 02月 09日
理由をことさらに考え出すということは、その理由のぶんだけうそになりがちである。 |
2015年2月9日(月)
司馬遼太郎の文章は、簡潔明瞭のなかにも奥深さがあり表現も巧みである。一つの事柄を最初にぼーんと差し出して、どう展開するのか、常に読み手に興味を抱かせ、期待を持たせて次々と読みたくさせる。歴史小説家のなかではそういったことで最も文章が上手いのではないかと思う。
『坂の上の雲』は長編だが、若い時にむさぼるように読んだのを思い出す。また『竜馬がゆく』はたしか大河ドラマで観たように思う。『街道をゆく』などのエッセイもいくつかは読んだ。最近、久々に”司馬遼”が読みたくなって来た。
司馬遼太郎は、「ずいぶん土佐と土佐人のことを書いてきたが、われながら妙である。なぜこれほどの関心をもったのか、考えてみたがわからない。多くの場合、理由をことさらに考え出すということは、物事を鮮明にすることではなく、理由のぶんだけ物事を複雑にするか、その理由のぶんだけうそになりがちなようである」
なかなか含蓄深い言葉だと思うが、やはり何事も、シンプルisベストなのである。
『竜馬と酒と黒潮と』という短いエッセイだが、その中にもいくつかの興味深い話がちりばめられている。
豊臣時代に、土佐の長曾我部が秀吉に降伏し、首長が屈強の家臣とともに海路大坂に入った、と書き始める。話にきく土佐人の風体に驚いたとあって、―その風体、野盗に異ならず。
という文章からして、先へ先へと読みたくなる。
土佐から海路大坂へはどうして入ったか。
四国を南北にへだてる脊梁山脈が巨大な障壁になって他国との往来を隔絶させている。~
汽船の出現によって浦戸湾を基点とする太平洋航路がはじめて開発されたが、明治以前の和船ではこの航路によって江戸へゆくことはおろか、大坂へゆくこともできなかった。
すなわち、大坂へ入るには、四国山脈の険路を越え、いったん愛媛に出て、しかるのちに香川県へ入り、多度津から和船に乗るしかない。紀貫之などは五十余日も費やしたといわれるほどだが、こうした辺境の地にあったことが土佐人に大きな影響を及ぼした。
空想をゆるされるならば(大いにゆるしてほしいのだが)、この隔離性のためにかれら土佐人はその精神的骨格のなかに日本人の固有なるものを多く残し、また大きく翻っておもえば、かれらは唯一の固有日本人(あいまいな呼称だが)というべきものかもしれないのである。
ここで満州民族を例に挙げ、僅か300年前にあれほどの権力を伸ばしたが、漢民族と混血してしまい、今や影も形もわからない。その言語にいたるや死語になり、固有のものを残していくことがいかに難しいかを述べるが、土佐に限ってはそうではなかった。
四国山脈と太平洋の障害が、土佐人の風骨のなかに固有なものを残さしめているような気がする。
具体的事象のなかにも、固有なものがのこっている。土佐人は水をmidu という。”づ”を発音することができるのである。”づ”と”ず”を区別する。”ぢ”と”じ”を明瞭に発音わけする。新カナづかいになったときに最大の被害をうけたのは高知県の小学生たちであった。かれらにとっては”づ”と”ず”はまったく別のものであるのにそれをすべて”ず”として書かねばならなかった。
江戸期に土佐藩士が江戸へゆき、江戸者をはじめ他国の者がこの区別ができないことに気づき、江戸弁や上方弁よりも土佐弁のほうが日本語として正しいとおもった。方言による劣等感をもたなかったばかりか、軽い優越感すらもった。これは幕末の土佐人が藩外活動する上で自信の根拠の一つになったであろう。~
坂本龍馬は生涯、どの土地のだれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。そこで土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。
また、土佐人は発音を明るく朗々としていて一声一声が明快である。兵隊をヘータイと言わずにヘイタイ、整理をセーリと言わずセイリと、ハッキリと発音するという。その土佐人の暢達な日本語は議論を好きにさせたというのである。そこへもってきて酒は日本一強い県民でもあるので、いったん酒が入れば、ますます議論伯仲ということになる。果てしなく論じ、果てしなく呑むのである。
さらにその上に、大阪で言う「ぼちぼちですわ」とは違い、何事も白黒をはっきりとつける性分から、争いはやまず、民事訴訟にいたることも多く、そのためか弁護士も他県の一人当たりに比べて多いと書いている。どうも話が上手い具合につながってゆくから面白い。他には「平等思想」に長けているという。その好例として土佐でいう「天保庄屋同盟」なるものを挙げている。
―庄屋とは、天皇から任命された職である。
という、当時の一般思想からすれば奇抜きわまりない思想を前提としている。庄屋というのは百姓の親玉であり、本来百姓の世話役であるにすぎず、藩から命ぜられて納税のことを代行している職分である。それが、天皇直命の職であるという。天皇というものを論理の中心にすえることによってかれら農民がつねひごろ呻吟している形而下的世界が、一瞬、一君万民の平等思想へ魔術的な化学変化を遂げるのである。古代、百姓は天皇の大御宝といわれた。つまり百姓は天皇と直接関係にあり、それをあずかっているのが庄屋という神聖職であり、その理論的世界からいえば武家など威張っていてもそれは何者であるか。浮世の都合でできあがったものではないか。~
こういう思想的風土から幕末におよんでは郷土・庄屋などによる土佐勤皇党の結成がおこなわれ、やがては坂本龍馬、大江卓。中江兆民、植木枝盛といった思想人の系譜をあみあげてゆくのだが、いずれにせよ、天保庄屋同盟というのは一地方史的事件とみるべきではなく、日本の思想史的事件として評価しなおすべきではないか。
そこで著者が言いたいのは、その風土にいたる根底にあるものは何かを追求するのだが、もうひとつよくわからないとしながらも、「この世を楽しめばよい」という思考材料、無神論的あっけらかん性を指摘する。そして・・・
私はこの稿を書くにあたって、最初べつな書きだしからはじめるつもりであった。西郷隆盛が薩南の地で私学生生徒一万を擁しつつ反政府的姿勢をとっていたとき、土佐ではすでに、自由民権運動が熾んであった。ともに反政府行動に起つか、とある県政の者が観測したところ、別な観測者がいった。
「土佐はだめだ、たとえば薩摩なら西郷の一声で私学生徒一万がやみくもに起ちあがるが、土佐は一人を説得するのに半日かかる」と。こういう角度から書けば土佐人像のべつな一面をえがけるであろう。
たしかにこういう土佐的性格と、思考、行動が、日本史とくに幕末以降の日本人の歴史に大きく投影し、影響した。
司馬遼太郎の文章は、簡潔明瞭のなかにも奥深さがあり表現も巧みである。一つの事柄を最初にぼーんと差し出して、どう展開するのか、常に読み手に興味を抱かせ、期待を持たせて次々と読みたくさせる。歴史小説家のなかではそういったことで最も文章が上手いのではないかと思う。
『坂の上の雲』は長編だが、若い時にむさぼるように読んだのを思い出す。また『竜馬がゆく』はたしか大河ドラマで観たように思う。『街道をゆく』などのエッセイもいくつかは読んだ。最近、久々に”司馬遼”が読みたくなって来た。
司馬遼太郎は、「ずいぶん土佐と土佐人のことを書いてきたが、われながら妙である。なぜこれほどの関心をもったのか、考えてみたがわからない。多くの場合、理由をことさらに考え出すということは、物事を鮮明にすることではなく、理由のぶんだけ物事を複雑にするか、その理由のぶんだけうそになりがちなようである」
なかなか含蓄深い言葉だと思うが、やはり何事も、シンプルisベストなのである。
『竜馬と酒と黒潮と』という短いエッセイだが、その中にもいくつかの興味深い話がちりばめられている。
豊臣時代に、土佐の長曾我部が秀吉に降伏し、首長が屈強の家臣とともに海路大坂に入った、と書き始める。話にきく土佐人の風体に驚いたとあって、―その風体、野盗に異ならず。
という文章からして、先へ先へと読みたくなる。
土佐から海路大坂へはどうして入ったか。
四国を南北にへだてる脊梁山脈が巨大な障壁になって他国との往来を隔絶させている。~
汽船の出現によって浦戸湾を基点とする太平洋航路がはじめて開発されたが、明治以前の和船ではこの航路によって江戸へゆくことはおろか、大坂へゆくこともできなかった。
すなわち、大坂へ入るには、四国山脈の険路を越え、いったん愛媛に出て、しかるのちに香川県へ入り、多度津から和船に乗るしかない。紀貫之などは五十余日も費やしたといわれるほどだが、こうした辺境の地にあったことが土佐人に大きな影響を及ぼした。
空想をゆるされるならば(大いにゆるしてほしいのだが)、この隔離性のためにかれら土佐人はその精神的骨格のなかに日本人の固有なるものを多く残し、また大きく翻っておもえば、かれらは唯一の固有日本人(あいまいな呼称だが)というべきものかもしれないのである。
ここで満州民族を例に挙げ、僅か300年前にあれほどの権力を伸ばしたが、漢民族と混血してしまい、今や影も形もわからない。その言語にいたるや死語になり、固有のものを残していくことがいかに難しいかを述べるが、土佐に限ってはそうではなかった。
四国山脈と太平洋の障害が、土佐人の風骨のなかに固有なものを残さしめているような気がする。
具体的事象のなかにも、固有なものがのこっている。土佐人は水をmidu という。”づ”を発音することができるのである。”づ”と”ず”を区別する。”ぢ”と”じ”を明瞭に発音わけする。新カナづかいになったときに最大の被害をうけたのは高知県の小学生たちであった。かれらにとっては”づ”と”ず”はまったく別のものであるのにそれをすべて”ず”として書かねばならなかった。
江戸期に土佐藩士が江戸へゆき、江戸者をはじめ他国の者がこの区別ができないことに気づき、江戸弁や上方弁よりも土佐弁のほうが日本語として正しいとおもった。方言による劣等感をもたなかったばかりか、軽い優越感すらもった。これは幕末の土佐人が藩外活動する上で自信の根拠の一つになったであろう。~
坂本龍馬は生涯、どの土地のだれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。そこで土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。
また、土佐人は発音を明るく朗々としていて一声一声が明快である。兵隊をヘータイと言わずにヘイタイ、整理をセーリと言わずセイリと、ハッキリと発音するという。その土佐人の暢達な日本語は議論を好きにさせたというのである。そこへもってきて酒は日本一強い県民でもあるので、いったん酒が入れば、ますます議論伯仲ということになる。果てしなく論じ、果てしなく呑むのである。
さらにその上に、大阪で言う「ぼちぼちですわ」とは違い、何事も白黒をはっきりとつける性分から、争いはやまず、民事訴訟にいたることも多く、そのためか弁護士も他県の一人当たりに比べて多いと書いている。どうも話が上手い具合につながってゆくから面白い。他には「平等思想」に長けているという。その好例として土佐でいう「天保庄屋同盟」なるものを挙げている。
―庄屋とは、天皇から任命された職である。
という、当時の一般思想からすれば奇抜きわまりない思想を前提としている。庄屋というのは百姓の親玉であり、本来百姓の世話役であるにすぎず、藩から命ぜられて納税のことを代行している職分である。それが、天皇直命の職であるという。天皇というものを論理の中心にすえることによってかれら農民がつねひごろ呻吟している形而下的世界が、一瞬、一君万民の平等思想へ魔術的な化学変化を遂げるのである。古代、百姓は天皇の大御宝といわれた。つまり百姓は天皇と直接関係にあり、それをあずかっているのが庄屋という神聖職であり、その理論的世界からいえば武家など威張っていてもそれは何者であるか。浮世の都合でできあがったものではないか。~
こういう思想的風土から幕末におよんでは郷土・庄屋などによる土佐勤皇党の結成がおこなわれ、やがては坂本龍馬、大江卓。中江兆民、植木枝盛といった思想人の系譜をあみあげてゆくのだが、いずれにせよ、天保庄屋同盟というのは一地方史的事件とみるべきではなく、日本の思想史的事件として評価しなおすべきではないか。
そこで著者が言いたいのは、その風土にいたる根底にあるものは何かを追求するのだが、もうひとつよくわからないとしながらも、「この世を楽しめばよい」という思考材料、無神論的あっけらかん性を指摘する。そして・・・
私はこの稿を書くにあたって、最初べつな書きだしからはじめるつもりであった。西郷隆盛が薩南の地で私学生生徒一万を擁しつつ反政府的姿勢をとっていたとき、土佐ではすでに、自由民権運動が熾んであった。ともに反政府行動に起つか、とある県政の者が観測したところ、別な観測者がいった。
「土佐はだめだ、たとえば薩摩なら西郷の一声で私学生徒一万がやみくもに起ちあがるが、土佐は一人を説得するのに半日かかる」と。こういう角度から書けば土佐人像のべつな一面をえがけるであろう。
たしかにこういう土佐的性格と、思考、行動が、日本史とくに幕末以降の日本人の歴史に大きく投影し、影響した。
by kirakuossan
| 2015-02-09 11:26
| 文芸
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