2014年 10月 06日
名山に近く、渓流またすぐれた潺湲を持っていて・・・100年前の「温泉めぐり」 |
2014年10月6日(月)
草津は昔からきこえた温泉場だけあって、感じがわるくなかった。想像していたのとは違って、何方かと言えば、ひらけた広闊とした位置にあるけれども、またその展け方が伊香保や箱根の強羅あたりとは違って、高原の上にありながら平野の中にあるような気がするけれども、それでも高燥な気があたりに漲って、有馬とか、道後とか、城の崎とかいう温泉のような世間に近い感じはしなかった。開けたようで、そして何処か山の中という感じを持った温泉であった。~沓掛方面からの軌道で入って行くと、草津は上州の温泉という感じはせずに信州の温泉という気がする。あの六里の原あたりの荒廃とした感じはちょっと好い。私はあそこを暑い日に草津からやって来て、浅間に登ったところが、運わるく山が鳴動してえらい目に逢ったことがあった。
明治の自然主義小説家・田山花袋はジャーナリストでもあり、旅行好きで、無類の温泉好きでもあった。彼の著作に『温泉めぐり』というのがある。ありきたりの旅行案内本よりもずっと読み応えがある。自分で歩いた体験が書かせただけあってその温泉の特徴をよくとらえ、明快に解説を加えているところなど、なるほど!と感心させられ、興味深い。
諏訪の人たちの出かけて行く山裏の湯にも、私は一顧を払わなければならない。滝の湯、渋の湯、その他いろいろな名の湯があるが、そこらの人たちは、これを山の湯と呼んでいる。~それはちょうど八ヶ嶽と蓼科の西面に展がった高原の一隅にあるようなところで、上諏訪から行けば、茅野駅で下りて、昔の中山道の副路である大門峠へ達する街道を二、三里行って、それから歩けるものは歩き、女子供の足弱は馬に乗って行った。~
この多い山の湯の中で、蓼科の南の裾にある温泉は、中でも一番静かで、世離れているということであった。もうそこは森林地帯で、林の影も深く、日光がそれを洩れて、谷の底に落ち、駒鳥や杜鵑なども鳴いて、悠遊旬日の興を十分に得ることが出来るという。そしてひまがあったら、蓼科に登って見る。この山はそう大して登路は険しくはない。それに表の佐久平野と、裏の諏訪平野とを併せて望む形になっているので、眺望も単調ではない。
このあたりの温泉とは、奥蓼科温泉や横谷渓流沿いの温泉のことを言っているのだろうが、花袋は、「・・・・という」とあって、どうも自分では実際に出かけた話ではなく、富士見に住むS氏から聞いた話であろう。当時の人からすれば諏訪の山奥の秘湯として知られ、訪れるにも随分たいへんな思いをした事が感じられる。
「さつま芋のふかし立て!」こう呼んで、旅舎の私たちのいる室の前を通った。妻は幼い児のために、それを呼んで、そして二つ三つ買った。
湯気のぽっぽっと立ったふかし芋!
冬なので、二階三階はすっかり閉め切って、湯殿に近い室に火燵をして貰って、そして私たちは静かに湯の気分に浸った。私たちは女の児の五つになるのを伴れて来た。山にはおりおり雲がかかって、細かい雪が時を定めずチラチラ庭に降ったかと思うと、日影が晴れやかに向うの白壁を塗ったような山の雪に金属のように輝いた。
花袋は伊香保の湯を愛したようで、この本にも何度も伊香保が出てくる。花袋に言わせれば、草津から伊香保までは「十五、六里の山路」とある。今度12月には、庵原氏とこの伊香保の湯を愉しむことにしている。
~~~~~~~~~~~~~~~
温泉というものはなつかしいものだ。長い旅に疲れて、何処かこの近所に静かに一夜二夜をゆっくり寝て行きたいと思う折に、思いもかけずその近くに温泉を発見して、汽車から下りて一、二里を車または乗合馬車に揺られ、山裾の村に夕暮の烟の静かに靡いているのを見ながら、そこに今夜は静かにゆっくり湯にし浸って寝ることができると思うほど、旅の興を惹くものはない。それがもし名山に近く、渓流またすぐれた潺湲(せんえん)を持っていて、一夜泊るつもりの計画がつい三日四日に及ぶというようなことも偶にはあるが、そういう時には殊に嬉しい忘れ難い印象を残さずにはおかない。
田山花袋著『温泉めぐり』(岩波文庫)より
この本は、博文館より大正7年12月に発刊されたが、当時、大類伸『史蹟めぐり』、大町桂月『山水めぐり』、笹川臨風『古跡めぐり』などと共にシリーズとして出された旅行案内書の一冊だったのであろう。
草津は昔からきこえた温泉場だけあって、感じがわるくなかった。想像していたのとは違って、何方かと言えば、ひらけた広闊とした位置にあるけれども、またその展け方が伊香保や箱根の強羅あたりとは違って、高原の上にありながら平野の中にあるような気がするけれども、それでも高燥な気があたりに漲って、有馬とか、道後とか、城の崎とかいう温泉のような世間に近い感じはしなかった。開けたようで、そして何処か山の中という感じを持った温泉であった。~沓掛方面からの軌道で入って行くと、草津は上州の温泉という感じはせずに信州の温泉という気がする。あの六里の原あたりの荒廃とした感じはちょっと好い。私はあそこを暑い日に草津からやって来て、浅間に登ったところが、運わるく山が鳴動してえらい目に逢ったことがあった。
明治の自然主義小説家・田山花袋はジャーナリストでもあり、旅行好きで、無類の温泉好きでもあった。彼の著作に『温泉めぐり』というのがある。ありきたりの旅行案内本よりもずっと読み応えがある。自分で歩いた体験が書かせただけあってその温泉の特徴をよくとらえ、明快に解説を加えているところなど、なるほど!と感心させられ、興味深い。
諏訪の人たちの出かけて行く山裏の湯にも、私は一顧を払わなければならない。滝の湯、渋の湯、その他いろいろな名の湯があるが、そこらの人たちは、これを山の湯と呼んでいる。~それはちょうど八ヶ嶽と蓼科の西面に展がった高原の一隅にあるようなところで、上諏訪から行けば、茅野駅で下りて、昔の中山道の副路である大門峠へ達する街道を二、三里行って、それから歩けるものは歩き、女子供の足弱は馬に乗って行った。~
この多い山の湯の中で、蓼科の南の裾にある温泉は、中でも一番静かで、世離れているということであった。もうそこは森林地帯で、林の影も深く、日光がそれを洩れて、谷の底に落ち、駒鳥や杜鵑なども鳴いて、悠遊旬日の興を十分に得ることが出来るという。そしてひまがあったら、蓼科に登って見る。この山はそう大して登路は険しくはない。それに表の佐久平野と、裏の諏訪平野とを併せて望む形になっているので、眺望も単調ではない。
このあたりの温泉とは、奥蓼科温泉や横谷渓流沿いの温泉のことを言っているのだろうが、花袋は、「・・・・という」とあって、どうも自分では実際に出かけた話ではなく、富士見に住むS氏から聞いた話であろう。当時の人からすれば諏訪の山奥の秘湯として知られ、訪れるにも随分たいへんな思いをした事が感じられる。
「さつま芋のふかし立て!」こう呼んで、旅舎の私たちのいる室の前を通った。妻は幼い児のために、それを呼んで、そして二つ三つ買った。
湯気のぽっぽっと立ったふかし芋!
冬なので、二階三階はすっかり閉め切って、湯殿に近い室に火燵をして貰って、そして私たちは静かに湯の気分に浸った。私たちは女の児の五つになるのを伴れて来た。山にはおりおり雲がかかって、細かい雪が時を定めずチラチラ庭に降ったかと思うと、日影が晴れやかに向うの白壁を塗ったような山の雪に金属のように輝いた。
花袋は伊香保の湯を愛したようで、この本にも何度も伊香保が出てくる。花袋に言わせれば、草津から伊香保までは「十五、六里の山路」とある。今度12月には、庵原氏とこの伊香保の湯を愉しむことにしている。
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温泉というものはなつかしいものだ。長い旅に疲れて、何処かこの近所に静かに一夜二夜をゆっくり寝て行きたいと思う折に、思いもかけずその近くに温泉を発見して、汽車から下りて一、二里を車または乗合馬車に揺られ、山裾の村に夕暮の烟の静かに靡いているのを見ながら、そこに今夜は静かにゆっくり湯にし浸って寝ることができると思うほど、旅の興を惹くものはない。それがもし名山に近く、渓流またすぐれた潺湲(せんえん)を持っていて、一夜泊るつもりの計画がつい三日四日に及ぶというようなことも偶にはあるが、そういう時には殊に嬉しい忘れ難い印象を残さずにはおかない。
田山花袋著『温泉めぐり』(岩波文庫)より
この本は、博文館より大正7年12月に発刊されたが、当時、大類伸『史蹟めぐり』、大町桂月『山水めぐり』、笹川臨風『古跡めぐり』などと共にシリーズとして出された旅行案内書の一冊だったのであろう。
by kirakuossan
| 2014-10-06 09:54
| 文芸
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