2014年 05月 10日
知的で洞察に富むエッセイ |
2014年5月10日(土)
武満徹
『時間の園丁』
ときのえんてい
(1996年3月刊)
東京とはいっても、私の住居は、かなり西北に外れた閑静な場所にある。それでも普段は、静寂をもとめて、信州の仕事場で作曲しているのだが、家の手入れや水道工事等で、ここ暫くは、東京で仕事をしている。それに信州はまだ寒さが厳しい。山の生活と違って、自炊せずに、家の者に毎度食事を作って貰うので、仕事はずいぶんと捗りそうなものだが、それがそうでもない。山ではテレビを見ないが、家では、つい家人と見てしまう。朝のうちのテレビといえば、殊に民放の番組は、馬鹿げた芸能界の噂話が多く、キャスターの甲高い声が耳ざわりで、それなら見なければよさそうなものだが、悪口を言いつつ見ている。
テレビとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレビ出演の常連たちは、なぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。~
そうしたなかでいささか気になるのは、事実を正確に報せればすむニュースの背景まで音楽が流されたりすることがある。そこに、私は、過剰な意図が感じられて、嫌な気分になる。伝えられている内容にはたぶん嘘はないのだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方であろうか?芸能人のゴシップに関するインタビュー等でも、答えは予め準備されていて、ひとの真意を訊すのではなく、殆ど誘導尋問に近いものが多い。それにしても、ニュースの背景まで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを憶い出させる。因に、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。 (テレビと感性の鈍麿 1993年4月)
武満徹(1930~1996)の別荘は、長野県北佐久郡御代田にあった。ちょうど堀辰雄の別荘などがある追分付近の西軽井沢あたりで、浅間山の山麓が拡がった一帯である。
武満氏は日本人でもっともすぐれた作曲家のひとりだが、彼の書いたエッセイも知的で洞察力に富んだ一級品である。
音楽を作曲する(形づくる)際には、日本の庭園の作庭の仕方から随分多くのヒントを得ている。特に、室町の禅僧、夢窓がしつらえた庭(西芳寺、天龍寺、瑞泉寺等)からは、その形成(フォーメーション)の深さと拡がりによって、つねに汲み尽せぬほどの多様な啓示を受けている。~
庭は空間的な芸術であると同時に時間芸術であり、その点で、音楽にたいへん近いように思う。庭は時々刻々その貌を変えている。だがその変化の様態は目に立つほどに激しいものではない。おだやかな円環的な時間の中で、完結することのない、無限の変化を生き続けている。 (日本の庭と音楽 1993年10月)
武満徹:子供のためのピアノ小品
武満徹
『時間の園丁』
ときのえんてい
(1996年3月刊)
東京とはいっても、私の住居は、かなり西北に外れた閑静な場所にある。それでも普段は、静寂をもとめて、信州の仕事場で作曲しているのだが、家の手入れや水道工事等で、ここ暫くは、東京で仕事をしている。それに信州はまだ寒さが厳しい。山の生活と違って、自炊せずに、家の者に毎度食事を作って貰うので、仕事はずいぶんと捗りそうなものだが、それがそうでもない。山ではテレビを見ないが、家では、つい家人と見てしまう。朝のうちのテレビといえば、殊に民放の番組は、馬鹿げた芸能界の噂話が多く、キャスターの甲高い声が耳ざわりで、それなら見なければよさそうなものだが、悪口を言いつつ見ている。
テレビとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレビ出演の常連たちは、なぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。~
そうしたなかでいささか気になるのは、事実を正確に報せればすむニュースの背景まで音楽が流されたりすることがある。そこに、私は、過剰な意図が感じられて、嫌な気分になる。伝えられている内容にはたぶん嘘はないのだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方であろうか?芸能人のゴシップに関するインタビュー等でも、答えは予め準備されていて、ひとの真意を訊すのではなく、殆ど誘導尋問に近いものが多い。それにしても、ニュースの背景まで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを憶い出させる。因に、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。 (テレビと感性の鈍麿 1993年4月)
武満徹(1930~1996)の別荘は、長野県北佐久郡御代田にあった。ちょうど堀辰雄の別荘などがある追分付近の西軽井沢あたりで、浅間山の山麓が拡がった一帯である。
武満氏は日本人でもっともすぐれた作曲家のひとりだが、彼の書いたエッセイも知的で洞察力に富んだ一級品である。
音楽を作曲する(形づくる)際には、日本の庭園の作庭の仕方から随分多くのヒントを得ている。特に、室町の禅僧、夢窓がしつらえた庭(西芳寺、天龍寺、瑞泉寺等)からは、その形成(フォーメーション)の深さと拡がりによって、つねに汲み尽せぬほどの多様な啓示を受けている。~
庭は空間的な芸術であると同時に時間芸術であり、その点で、音楽にたいへん近いように思う。庭は時々刻々その貌を変えている。だがその変化の様態は目に立つほどに激しいものではない。おだやかな円環的な時間の中で、完結することのない、無限の変化を生き続けている。 (日本の庭と音楽 1993年10月)
武満徹:子供のためのピアノ小品
by kirakuossan
| 2014-05-10 08:08
| 文芸
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