2014年 04月 09日
銭形平次のクラシック評 |
2014年4月9日(水)
教員室のテーブルの上に、南蛮渡来の摩訶不思議な器械をすえ、青竹の手摺で囲った中へ、生徒が二三人ずつ順々に入って、ゴム管を耳に当て、ほんの少しずつ聴くと、器械を止めて、次の生徒と交代するのであった。
先生の説明によると、歌や音楽は蝋の筒に刻まれているが、その刻まれた音は、六十回位かけると消えるだろうということである。筒に音楽を保存するという意味を、私はどうしても解らなかったが、いろいろ考えた末、東北地方に伝わっている民話の一つで落語のマクラに使用される―寒い国で冬になると隣の家との往来も出来ないため、竹筒を通して話をしていたのが、ひどい寒さで話が凍ってしまい、翌年の春になって氷が解けると、おしゃべりの奔流が一ぺんに飛び出した―というのを思い出していた。
それはともかく、高等科の先生は鞭を持って器械を指しながら、「どうだ聴こえるだろう。聴こえるだろう」と、少し高圧的に言うのである。器械が廻ると、物のキシるような音がしたように思うが、それが歌であったか、器楽であったか、甚だ取りとめのないものであった。しかし「聴こえません」という勇気を欠いた田舎の小学生達は、顔を見合せて神妙にうなずくばかりであった。~
蝋管から平円盤に吹き込み直すのは極めて簡単な操作で、サラサーテやヨアヒムやルリークのレコードはほとんど全部それだと言われている。歴史的名盤保存会のバティスティーニとタマニョも蝋管から移したものらしい。
<『音楽は愉し』(音楽之友社刊)から「蝋管時代」>
戦後間もない昭和21年に日本音楽雑誌社から刊行された『音楽は愉し』が今回、音楽之友社から再版になった。著者は野村あらえびす(1882~1963)、『銭形平次捕物控』の野村胡堂、その人である。あらえびすはクラシック音楽の評論家としては、それこそ”はしり”の人で、音楽会や美術関係のことを書きだしたのは1922年からとされている。戦前のクラシック音楽愛好家にとってはバイブル的存在の人物であった。この人の一万枚とも二万枚とも言われるSPレコードによる音楽解説、戦前の苦心しての音楽鑑賞談は、今読んでみても、新鮮で、価値あるものが多い。
あらえびすは本著の冒頭でこう記す。
三十年の長い間、私は文字通りレコードと共に生活した。単にレコードを集めることに熱中したばかりでなく、心に楽しむことがあればすなわちレコードに托してその歓びを家族や友達に分ち、悲しく侘しいことがあれば、レコードを掻き鳴らして、私はその前に首うな垂れたのである。例を挙げて言えば、バッハの器楽曲は私の喜びを鼓舞し、シューベルトの「冬の旅」や「白鳥の歌」は、私のやるせなさを慰めてくれたのである。その間に私は三人の愛児を喪い、新聞記者からいつの間にやら小説家になった。~
音楽はかくも愉しく、我々の生活を豊かにし、我々の魂の糧ともなってくれることを強調するのは、平和日本の新文化建設途上には、必ずしも意義のないことではあるまい。
昭和二十一年八月
あらえびす
教員室のテーブルの上に、南蛮渡来の摩訶不思議な器械をすえ、青竹の手摺で囲った中へ、生徒が二三人ずつ順々に入って、ゴム管を耳に当て、ほんの少しずつ聴くと、器械を止めて、次の生徒と交代するのであった。
先生の説明によると、歌や音楽は蝋の筒に刻まれているが、その刻まれた音は、六十回位かけると消えるだろうということである。筒に音楽を保存するという意味を、私はどうしても解らなかったが、いろいろ考えた末、東北地方に伝わっている民話の一つで落語のマクラに使用される―寒い国で冬になると隣の家との往来も出来ないため、竹筒を通して話をしていたのが、ひどい寒さで話が凍ってしまい、翌年の春になって氷が解けると、おしゃべりの奔流が一ぺんに飛び出した―というのを思い出していた。
それはともかく、高等科の先生は鞭を持って器械を指しながら、「どうだ聴こえるだろう。聴こえるだろう」と、少し高圧的に言うのである。器械が廻ると、物のキシるような音がしたように思うが、それが歌であったか、器楽であったか、甚だ取りとめのないものであった。しかし「聴こえません」という勇気を欠いた田舎の小学生達は、顔を見合せて神妙にうなずくばかりであった。~
蝋管から平円盤に吹き込み直すのは極めて簡単な操作で、サラサーテやヨアヒムやルリークのレコードはほとんど全部それだと言われている。歴史的名盤保存会のバティスティーニとタマニョも蝋管から移したものらしい。
<『音楽は愉し』(音楽之友社刊)から「蝋管時代」>
戦後間もない昭和21年に日本音楽雑誌社から刊行された『音楽は愉し』が今回、音楽之友社から再版になった。著者は野村あらえびす(1882~1963)、『銭形平次捕物控』の野村胡堂、その人である。あらえびすはクラシック音楽の評論家としては、それこそ”はしり”の人で、音楽会や美術関係のことを書きだしたのは1922年からとされている。戦前のクラシック音楽愛好家にとってはバイブル的存在の人物であった。この人の一万枚とも二万枚とも言われるSPレコードによる音楽解説、戦前の苦心しての音楽鑑賞談は、今読んでみても、新鮮で、価値あるものが多い。
あらえびすは本著の冒頭でこう記す。
三十年の長い間、私は文字通りレコードと共に生活した。単にレコードを集めることに熱中したばかりでなく、心に楽しむことがあればすなわちレコードに托してその歓びを家族や友達に分ち、悲しく侘しいことがあれば、レコードを掻き鳴らして、私はその前に首うな垂れたのである。例を挙げて言えば、バッハの器楽曲は私の喜びを鼓舞し、シューベルトの「冬の旅」や「白鳥の歌」は、私のやるせなさを慰めてくれたのである。その間に私は三人の愛児を喪い、新聞記者からいつの間にやら小説家になった。~
音楽はかくも愉しく、我々の生活を豊かにし、我々の魂の糧ともなってくれることを強調するのは、平和日本の新文化建設途上には、必ずしも意義のないことではあるまい。
昭和二十一年八月
あらえびす
by kirakuossan
| 2014-04-09 10:17
| クラシック
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