2014年 03月 25日
凡演で聴いてはいけない曲「イタリア」 |
2014年3月25日(火)
何だこの”軽さ”は、この”心地よい軽さ”は、ペーター・マークの「イタリア」だ。やはりこの人のメンデルスゾーンはどこか一味も二味も違うように感じられる。素晴らしい。
もともと「イタリア」は明るくて、軽快でないといけない。でも明るく、軽快にやってしまうと行きつくところ、音楽として堪えがたいほどの軽さになってしまうこともある。だからメンデルスゾーンの「イタリア」は簡単そうで難しい、名演も少ない。トスカニーニの「イタリア」はこの曲の代表作としてとみに有名であるが、さすがにここにきては古臭さが隠せない。ミュンシュのボストン響は跳ねすぎるし、セルのクリーヴランド管ではやはりキレが良すぎる。ショルティとイスラエル・フィルとのは上手い演奏なんだが「イタリア」の音楽ではない。エマニュエル・クリヴィヌの手兵ラ・シャンブル・フィルハーモニクとの演奏はイイ線行っている、やはりフランスの華やかさが「イタリア」に近いのか。やはりオケの持つ本来の風土にも関係するのだろう。ペーター・マークが振るのはスペインのマドリード響、やはりお国柄、本質的に「イタリア」のあのカラッとした空気感を持つのだろう。一方で、クルト・マズアの「イタリア」などは、間延びして、甘ったるく、ひつこくて、軽さなんかは微塵もない。ドイツのオケだからということもあるのだろうが、それにしてもこの人はいつものことだがホントに音楽が分っていないと思う。どのような思いで曲作りをしているのか?せっかくのゲヴァントハウスが台無しである。
最近では「スコットランド」や「宗教改革」あるいは「讃歌」などを聴く機会が多くて、最初のころ一番よく聴いていた「イタリア」は最近すっかりご無沙汰であったが、こうしてペーター・マークの「イタリア」のように曲想の真髄に触れるようなすぐれた演奏を聴くと感慨深いものである。
「イタリア」は絶対に凡演で聴いてはいけない曲のひとつである。
メンデルスゾーン:
交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 Op. 90
マドリード交響楽団
ペーター・マーク(指揮)
(写真はいずれもWikipedia Italiano)
何だこの”軽さ”は、この”心地よい軽さ”は、ペーター・マークの「イタリア」だ。やはりこの人のメンデルスゾーンはどこか一味も二味も違うように感じられる。素晴らしい。
もともと「イタリア」は明るくて、軽快でないといけない。でも明るく、軽快にやってしまうと行きつくところ、音楽として堪えがたいほどの軽さになってしまうこともある。だからメンデルスゾーンの「イタリア」は簡単そうで難しい、名演も少ない。トスカニーニの「イタリア」はこの曲の代表作としてとみに有名であるが、さすがにここにきては古臭さが隠せない。ミュンシュのボストン響は跳ねすぎるし、セルのクリーヴランド管ではやはりキレが良すぎる。ショルティとイスラエル・フィルとのは上手い演奏なんだが「イタリア」の音楽ではない。エマニュエル・クリヴィヌの手兵ラ・シャンブル・フィルハーモニクとの演奏はイイ線行っている、やはりフランスの華やかさが「イタリア」に近いのか。やはりオケの持つ本来の風土にも関係するのだろう。ペーター・マークが振るのはスペインのマドリード響、やはりお国柄、本質的に「イタリア」のあのカラッとした空気感を持つのだろう。一方で、クルト・マズアの「イタリア」などは、間延びして、甘ったるく、ひつこくて、軽さなんかは微塵もない。ドイツのオケだからということもあるのだろうが、それにしてもこの人はいつものことだがホントに音楽が分っていないと思う。どのような思いで曲作りをしているのか?せっかくのゲヴァントハウスが台無しである。
最近では「スコットランド」や「宗教改革」あるいは「讃歌」などを聴く機会が多くて、最初のころ一番よく聴いていた「イタリア」は最近すっかりご無沙汰であったが、こうしてペーター・マークの「イタリア」のように曲想の真髄に触れるようなすぐれた演奏を聴くと感慨深いものである。
「イタリア」は絶対に凡演で聴いてはいけない曲のひとつである。
メンデルスゾーン:
交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 Op. 90
マドリード交響楽団
ペーター・マーク(指揮)
(写真はいずれもWikipedia Italiano)
by kirakuossan
| 2014-03-25 10:31
| クラシック
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