2014年 01月 17日
男の生きざま |
2014年1月17日(金)
宵曲子は文学辞典の類には俳人として出てゐようが、ただの俳諧ばかりの人ではなかった。万般のことに通じたもの知りで、それでゐて決して高くはとまらず、何人とも打ち解けて話をした。子は中学を中途で退学したといふ乏しい学歴しか持たなかった。しかしそれから図書館に通って、自分の好きな本を読み、自力で自分をつくり上げたのだから、ちょっと真似の出来ぬ人だった。~
『古句を観る』の古句は、元禄時代の芭蕉の息のかかつた俳書から集めたのであるが、その中には芭蕉やその周囲の主だった人達の句は一つも採らず、無名作家の手になつた作句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても聖心な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。宵曲子は古い俳書をも丁寧に読んで、さうした句ばかりを集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はわれる。<略>
子は何ともいはれぬ気持ちのよい人で、その実力は子を知る限の先輩同輩の等しく認めるところであった。今の読書界の人々などは、子を問題にしないのであるが、それだけになほ子の実力は重んずべきで、私等のやうな交誼三十何年に亘る者等は、子の著述がまた世に出るといふ一事が嬉しくて堪らない。どうかして子の著書がもう少し広く世に行はれるやうにしたいと願つてゐる時に、『古句を観る』が復刊せられるといふのが、喜ばしいのである。
これは柴田宵曲著『古句を観る』(岩波文庫)のあとがきで、書物研究家で親友でもあった森銑三が書いた解説文である。森の方が2歳年上だが、宵曲に敬意をはらい愛情に満ちた関係が良く伝わって来る。少し長くはなったがこの一文で柴田宵曲の人物像がよく理解できる。
宵曲に魅かれるのは、生涯権勢に近づかず、人に知られることを求めずして一生を送ったと言われところにあるが、そのことをよく表わしたことにこんな話がある。
彼は幼少のときから俳句に馴染み、夏目漱石や、すでに故人であった正岡子規に傾倒した。21歳のとき、ホトトギス社の編集員となり書記につくが、同郷の門弟であった寒川鼠骨を尊敬し、共に『子規全集』編纂に尽力することになる。26歳に、師でもあった高浜虚子の下を去り、明らかに苦労するであろう清貧の鼠骨を慕って行く。優秀な編集者として認められ、ホトトギスに残れば自分の将来を約束されていたであろうものを、全て投げ捨てて険しい道を選ぶのである。こういうところの”男の生きざま”みたいなところが大変好きだ。
宵曲は随筆も多く書いた。そのどれもが博学な知識に裏打ちされて興味深いものばかりでついつい読む者を惹きこんでしまう。
精神形成を培った師寒川鼠骨の思い出を綴った「無始無終」はとくに思い入れが深く、文庫本40頁にも及ぶ長文の随筆である。昭和29年8月、鼠骨が長逝し、師の追慕の筆を取ったものである。
無始無終山茶花徒(むだ)に開落す
先生はしばしばこの句を書かれた。現在の私の頭では到底首尾一貫したものなど書けそうもない。心に浮んで来るままを書きとめて、あとは山茶花の開落に任せるより外はあるまいと思う。
大正七年六月二十一日と私の日記にはある。はじめて先生の門を潜った。同じ根岸に住んでいたのだから、御宅の所在は無論承知していた。のみならず親しく御目にかかる以前に、余所ながら先生を御見かけしたことさえあった。上根岸三十八番地の御宅の隣には、小学校以来の友人が住んでいて、その家を訪れた際に偶然御隣の門を出て来た人がある。散歩に出られるか、銭湯にでも行かれるかというような軽装であったが、私は先生に相違ないと直覚した。それが大正七年六月よりどの位前であったか、今では全く見当もつかぬけれど、とにかくその人が先生であったことは、御目にかかって明になった。
そして思い出を綴った「無始無終」は次のように閉められる。
寒川先生を喪って以来、私は幾度かこの言葉を憶起した。尽きざる追懐の筆を執れば執るほど、我心は慰まず、先生逝去当時のよるべない気持がひしひしと身に迫るのを如何ともすることが出来ぬ。われわれがどれだけ筆を費したところで、先生の音容を髣髴することは至極であろう。もうこの筆は投じなければならぬ。「無始無終」はここで打ち切っても、われわれの悲しみは「無終」に続くことと信ずる。
柴田 宵曲(1897~1966)東京日本橋の生れ。俳人、歌人、随筆家、書誌学者で優れた編集者でもあった。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ1875~1954)同郷松山の先輩でもある正岡子規門下の俳人。子規亡き跡も遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽力した。
宵曲子は文学辞典の類には俳人として出てゐようが、ただの俳諧ばかりの人ではなかった。万般のことに通じたもの知りで、それでゐて決して高くはとまらず、何人とも打ち解けて話をした。子は中学を中途で退学したといふ乏しい学歴しか持たなかった。しかしそれから図書館に通って、自分の好きな本を読み、自力で自分をつくり上げたのだから、ちょっと真似の出来ぬ人だった。~
『古句を観る』の古句は、元禄時代の芭蕉の息のかかつた俳書から集めたのであるが、その中には芭蕉やその周囲の主だった人達の句は一つも採らず、無名作家の手になつた作句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても聖心な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。宵曲子は古い俳書をも丁寧に読んで、さうした句ばかりを集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はわれる。<略>
子は何ともいはれぬ気持ちのよい人で、その実力は子を知る限の先輩同輩の等しく認めるところであった。今の読書界の人々などは、子を問題にしないのであるが、それだけになほ子の実力は重んずべきで、私等のやうな交誼三十何年に亘る者等は、子の著述がまた世に出るといふ一事が嬉しくて堪らない。どうかして子の著書がもう少し広く世に行はれるやうにしたいと願つてゐる時に、『古句を観る』が復刊せられるといふのが、喜ばしいのである。
これは柴田宵曲著『古句を観る』(岩波文庫)のあとがきで、書物研究家で親友でもあった森銑三が書いた解説文である。森の方が2歳年上だが、宵曲に敬意をはらい愛情に満ちた関係が良く伝わって来る。少し長くはなったがこの一文で柴田宵曲の人物像がよく理解できる。
宵曲に魅かれるのは、生涯権勢に近づかず、人に知られることを求めずして一生を送ったと言われところにあるが、そのことをよく表わしたことにこんな話がある。
彼は幼少のときから俳句に馴染み、夏目漱石や、すでに故人であった正岡子規に傾倒した。21歳のとき、ホトトギス社の編集員となり書記につくが、同郷の門弟であった寒川鼠骨を尊敬し、共に『子規全集』編纂に尽力することになる。26歳に、師でもあった高浜虚子の下を去り、明らかに苦労するであろう清貧の鼠骨を慕って行く。優秀な編集者として認められ、ホトトギスに残れば自分の将来を約束されていたであろうものを、全て投げ捨てて険しい道を選ぶのである。こういうところの”男の生きざま”みたいなところが大変好きだ。
宵曲は随筆も多く書いた。そのどれもが博学な知識に裏打ちされて興味深いものばかりでついつい読む者を惹きこんでしまう。
精神形成を培った師寒川鼠骨の思い出を綴った「無始無終」はとくに思い入れが深く、文庫本40頁にも及ぶ長文の随筆である。昭和29年8月、鼠骨が長逝し、師の追慕の筆を取ったものである。
無始無終山茶花徒(むだ)に開落す
先生はしばしばこの句を書かれた。現在の私の頭では到底首尾一貫したものなど書けそうもない。心に浮んで来るままを書きとめて、あとは山茶花の開落に任せるより外はあるまいと思う。
大正七年六月二十一日と私の日記にはある。はじめて先生の門を潜った。同じ根岸に住んでいたのだから、御宅の所在は無論承知していた。のみならず親しく御目にかかる以前に、余所ながら先生を御見かけしたことさえあった。上根岸三十八番地の御宅の隣には、小学校以来の友人が住んでいて、その家を訪れた際に偶然御隣の門を出て来た人がある。散歩に出られるか、銭湯にでも行かれるかというような軽装であったが、私は先生に相違ないと直覚した。それが大正七年六月よりどの位前であったか、今では全く見当もつかぬけれど、とにかくその人が先生であったことは、御目にかかって明になった。
そして思い出を綴った「無始無終」は次のように閉められる。
寒川先生を喪って以来、私は幾度かこの言葉を憶起した。尽きざる追懐の筆を執れば執るほど、我心は慰まず、先生逝去当時のよるべない気持がひしひしと身に迫るのを如何ともすることが出来ぬ。われわれがどれだけ筆を費したところで、先生の音容を髣髴することは至極であろう。もうこの筆は投じなければならぬ。「無始無終」はここで打ち切っても、われわれの悲しみは「無終」に続くことと信ずる。
柴田 宵曲(1897~1966)東京日本橋の生れ。俳人、歌人、随筆家、書誌学者で優れた編集者でもあった。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ1875~1954)同郷松山の先輩でもある正岡子規門下の俳人。子規亡き跡も遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽力した。
by kirakuossan
| 2014-01-17 22:32
| 文芸
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