2013年 12月 16日
さふ云ふ色のおかうこを、かりかり食った。 |
2013年12月16日(月)
内田百閒(1889~1971)の小説はまだ読んだことはないが、恐らくこの人の場合、断然随筆の方が面白いと思う。
『御馳走帖』(中公文庫)は、戦後すぐ、御馳走どころか食べるものもろくになかった昭和21年に発刊され、17年前に、初版以降にでた随筆も加えて改版され、すでに14刷を数える随筆集である。
私の生家は酒屋であって、子供の時の古い記憶の底には、寒の夜明けの寝床で聞いた酴摺(もとすり)歌の節や、遠い倉から響いて来たことんことんと云ふ櫂の音などが、かすかに残ってゐる。
父の代に家が貧乏したのは、父が酒飲みであったから、お酒の為にしくじったのであると、母や祖母から聞かされてゐたけれども、当時の父よりも年を取った今の自分の判断で考へて見ると、父の酒のために家が傾いたとは思はわれない。寧ろさう云ふ風になった家運の挽回成らずして、そのために父が酒を過ごすことも多かったのではないかと思はわれる。
しかし私がまた酒飲みになつて、父の轍を踏む様な事があつてはならぬと云ふ心遣ひから、祖母は私に、一人前になるまでは決して酒を飲むなと戒めた。それだから私は学校を出るまで、麦酒の味は知つてゐたけれども酒は余り飲まなかつた。
卒業してから暫らくすると、陸軍教授を拝命したので、私は曲りなりにも、一人前になつた様である。当時はもう家でも酒を飲んでゐたが、その内にだれに教はつたか思ひ出せないけれど、大地震前の銀座の横丁にあつた「三勝」と云ふ縄暖簾に通ふ事を覚えて、自分でも解るほどお酒の手が上がり、また飲み上手になつた。
三勝の酒は白鶴で、嘉納から直接に取つてゐたものらしい。大変お燗に気をつけて、お客がこんで来ても、決して火にかけた鉄瓶や薬鑵には燗徳利をつけなかつた。一度わざとさうした燗と、向うでつけてくれた燗とをその場で飲みくらべて見て、成るほどと得心した事がある。さう云ふ事で段段酒の味も覚えて来た。<略>
大阪の酒と東京の酒とはどう違ふかと云ふ事は、酒飲みの話題の一つであるけれども、東京の酒と云ふ事を狭く考へると、品種も極めて少い。結局、東京で飲む大阪の酒と云ふ事に落ちついて、ただ一般に東京好みの甘口とか、特に木の香を珍重するとか、輸送の途中に樽がすいて、それだけ酒が濃くなるのを喜ぶとか、要するに酒飲みの好みとは縁故の薄い特色で、大阪の好みと区別するに過ぎない様に思はわれる。東京で一番大切らしく云ふ「こくがある」と云ふ事は、酒飲みには迷惑な事であつて、特にこくがあると云はれる様な酒は常用に適しない。反対にこくがなくてさらりとした味に、清い香気と色の吟味が酒飲みには一番大切なのであらうと思はわれる。(「酒光漫筆」より)
~~~~~~~~~~
寒い間は寝床の中が温いので、朝が遅くなるけれども、夏は早く起きる。学校に通った間は、学生の時も教師になってからも、何十年間ずつと寝坊で毎朝の支度に日日大騒ぎしたが、教師を止めてから窮屈な束縛がなくなると、急に早起きになつた様である。朝寝床を出る時、少しまだ寝たりない気持ちがする時でも、一たん起きて後でまた眠ればいいと云ふ安心があるから、思ひきりがつくのであらふと思ふ。~
朝の支度は、起きると先ず果物を一二種食ふ。梨や林檎は大概半顒宛、桃は大きくても小さくても一つ宛食べる。桃の身は濡れてゐて辷り込むから食つてしまふのである。それと同時に葡萄酒を一杯飲む。大変貴族的な習慣で聞きなりはいいが、常用の葡萄酒は日本薬局方の所謂赤酒である。問屋からまとめて買ふので一本五十二銭である。
家人が部屋の掃除をする間、私は玄関の二畳で新聞をひろげたり、朝の便で配達して来た雑誌の封を切って、一通り中をめくったりする。~
郵便や新聞を見終わる前に、ビスケットを噛つて牛乳を飲む。これで朝飯を終わるのである。ビスケットは英字の形をした余りあまくないのを常用してゐる。アイやエルは劃が少いので口に入れても歯ごたえへがない。ビイやジイは大概腹の穴が潰れて一塊りになってゐるから口の中でもそもそする。さう云ふ色色の形を指先で選り分けて摘んで食べる。それから上厠して最後に顔を洗って、それで朝の支度を終るのである。
何の邪魔も這入らない時は、十時から仕事にかかる。さうしてお午になると蕎麦を食べる。~
夕食の膳では酒を飲む。酒も決して外の時間には口にしない。間ではお行儀のわるい事をすると、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからである。酒は月桂冠の罎詰、麦酒は恵比寿麦酒である。銀座辺りで飲ませる独逸麦酒をうまいと思った事もなく、麒麟麦酒には味があって常用には適しない。平生の口と味の変はるのがいけないのだから、特にうまい酒はうまいと云ふ点で私の嗜好に合はなくなる。いつか灘の白鷹の生詰を飛行機で持って来てくれたので飲んでみると、罎詰の月桂冠より遥かに香りが高くてうまかった。利き酒としての話なら褒め上げるに吝かでないが、私の食膳には常用の味と違ふと云ふ点でその銘酒は失格した。一二杯飲んだだけで、その儘下げて酒塩にしてしまった。
夜は大概仕事をしない。おなかのふくれたところで寝てしまふ。寝る前に机に向ってゐると、智恵分別が上がるにつけて気が立つて中中眠れなくなる様である。夜は安眠する。八時間から十時間ぐらゐ眠るつづける事は何でもない。自分で随分賢いと思ふ事も多いが、こんなに長い時間ぐうぐう寝てゐられるところを見ると、本当は腹のどこかが抜けてゐるのではないかと疑はしくなる事もある。
(「百鬼園日暦」より)
~~~~~~~~~~
「おかうこ、かりかり、お茶漬けさぶさぶ」沢庵の事を私の郷里では、かうこと云ふのである。御馳走を食べた後で、口をさっぱりさせる為に、最後の一膳はかうこでお茶漬けにするけれども、貧乏人は初めからお茶漬けですませる。お梅子乞食と云ふ子供を連れた乞食は、いつまでも裏門から這入って来て、手拭を縫ひ合わせた袋の中に、御飯の残りと、沢庵の切れ端とを一緒にうつし込んで貰って「お有り難う様で御座いました」と云って、帰って行った。
沢庵の色は、黄色が黒ずんで、その上に皺があって、皺の中がよごれてゐて、全く貧乏人や乞食の食ふ物だと思った。しかし御飯の時、最後までおかずを食べると、行儀が悪いと云って叱られるのでお茶漬けには、さふ云ふ色のおかうこを、かりかり食った。(「沢庵」より)
~~~~~~~~~~
きらひではないけれど、飲みたいと思ってゐない時に、先方の思ひつきで飲まされるのは迷惑である。後の用事とか予定とか、さふ云ふ事は第二としても、自分のおなかの中の順序に、外部から干渉されるのが、いやなのである。
「折角ですが、どうかお抜きにならないで」
「まあおよろしいでは御座いませんか、大分お強いに伺って居りますわ、宅では主人があんまり行けませんので」~
そこへ女中が鰻丼を持って来る。既に万事休して、このお陰で今晩の食膳が、どんなに不味くなるかと考へると、先ず以って憂鬱になる。
コップが小さくて、おまけに胴中がくびれて、あんまり沢山這入らない様になってゐるから、奥さんのお酌でいくら飲んでも、麦酒を飲んだ気持ちになれない。~
むっとした気持ちで、鰻丼に箸をつけると、因果な事に案外うまかったりして、一粒も残さず食べてしまった後では、おなかが苦しくなって、頭は鬱陶しく、麦酒と一緒にふくれるものだから胸がどきどきし出す。だからこちらの欲せざる時に、外の時なら欲しさうな物を、先方の思ひつきで、勝手に人の前に供せられては、困るのである。(「饗応」より)
~~~~~~~~~~
漱石先生の高足、横暴極まり無き鈴木三重吉さんが目を怒らして云ふ。「内田のヤツ、貧乏だ貧乏だとぼやいてゐるが、あの野郎、家で毎晩カツレツを七八枚喰らひ、人が来れば麦酒を自分一人で一どきに六本も飲んで、その間一度も小便に立たないとほざいてる。それを自慢にしてやがる、あん畜生」
そんなにぼろくそに云はれなくてもいいが、しかし丸で身に覚えのない事ではない。事実無根ではないが、少し説明を加へておく。カツレツと云ふのはビーフカツレツで、当今の様なポークカツレツ、豚カツではない。大正始め頃の話で、豚肉が一般の食用になったのはその後の事である。
初めの頃、御用聞きが来て註文を受け、豚肉を誂へられると、後で経木にくるんだ豚を届けて来る。牛肉は従来通り竹の皮である。白っぽい経木の包みをお勝手の板の間へ置くと、ちょいと、その辺へ、少し離して置いて行ってくれと頼む。そこいらの外の物に触れれば、きたない様な気がした。豚と云ふ物の不潔感、けがれの聯想が、どうせすぐ後で口にするにしても、何となく拭い切れなかつた様である。
そこへ行くと、牛肉は清潔である、などと云ふ理窟はない。小学校の友達の近所の大工が普請の屋根から落ちて死んだ。前の晩に牛肉を食つてゐたので、そのけがれの為だと云ふ。
(「牛カツ豚カツ豆腐」より)
~~~~~~~~~~
十年ばかり前に、夏目純一君が渡欧した時、神戸まで見送りに行った。その帰りに、夏目家の人人と一緒に京都に寄って、京都ホテルに泊まった。泊まったのではない。泊まらしてもらつたのである。別に一室をあてがわれたから、ベッドの上に寝て見たところが、いろいろ勝手が違ふので、気が立つて、ちつとも眠くならなかつた。・・・・(「食而」より)
晩年、 芸術院会員に推薦されるが断った。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ 」と言ったという。これらの随筆の中からでも内田百閒という人の性格や人柄がよくうかがえる。
何事にも”こだわり”を大切にして、”偏屈”でちょっと”我儘”で、それでいて”律儀”で、そしてなによりも”正直”な人だな、と思う。、夏目漱石門下でもある百閒が、「食而」での夏目家の人たちと泊った、いや「泊まったのではない。泊まらしてもらつたのである。」といったところは他の作家によってはそのまま過ごしてしまうこともあると思うが、この人のどこまでも”正直”なところが文章のなかにのぞくのである。
故郷の岡山県への愛郷心は人一倍強く、大手まんぢゅうをはじめ、岡山の食べ物にも強く思い焦がれていた。しかし「大切な思い出を汚したくない」として、恩師の葬儀に一時帰省した以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められやっと帰郷が叶うこととなった。
僕は、この人の独特の”人間的面白味”や人柄、生きざまがとても好きだ。
内田百閒(1889~1971)の小説はまだ読んだことはないが、恐らくこの人の場合、断然随筆の方が面白いと思う。
『御馳走帖』(中公文庫)は、戦後すぐ、御馳走どころか食べるものもろくになかった昭和21年に発刊され、17年前に、初版以降にでた随筆も加えて改版され、すでに14刷を数える随筆集である。
私の生家は酒屋であって、子供の時の古い記憶の底には、寒の夜明けの寝床で聞いた酴摺(もとすり)歌の節や、遠い倉から響いて来たことんことんと云ふ櫂の音などが、かすかに残ってゐる。
父の代に家が貧乏したのは、父が酒飲みであったから、お酒の為にしくじったのであると、母や祖母から聞かされてゐたけれども、当時の父よりも年を取った今の自分の判断で考へて見ると、父の酒のために家が傾いたとは思はわれない。寧ろさう云ふ風になった家運の挽回成らずして、そのために父が酒を過ごすことも多かったのではないかと思はわれる。
しかし私がまた酒飲みになつて、父の轍を踏む様な事があつてはならぬと云ふ心遣ひから、祖母は私に、一人前になるまでは決して酒を飲むなと戒めた。それだから私は学校を出るまで、麦酒の味は知つてゐたけれども酒は余り飲まなかつた。
卒業してから暫らくすると、陸軍教授を拝命したので、私は曲りなりにも、一人前になつた様である。当時はもう家でも酒を飲んでゐたが、その内にだれに教はつたか思ひ出せないけれど、大地震前の銀座の横丁にあつた「三勝」と云ふ縄暖簾に通ふ事を覚えて、自分でも解るほどお酒の手が上がり、また飲み上手になつた。
三勝の酒は白鶴で、嘉納から直接に取つてゐたものらしい。大変お燗に気をつけて、お客がこんで来ても、決して火にかけた鉄瓶や薬鑵には燗徳利をつけなかつた。一度わざとさうした燗と、向うでつけてくれた燗とをその場で飲みくらべて見て、成るほどと得心した事がある。さう云ふ事で段段酒の味も覚えて来た。<略>
大阪の酒と東京の酒とはどう違ふかと云ふ事は、酒飲みの話題の一つであるけれども、東京の酒と云ふ事を狭く考へると、品種も極めて少い。結局、東京で飲む大阪の酒と云ふ事に落ちついて、ただ一般に東京好みの甘口とか、特に木の香を珍重するとか、輸送の途中に樽がすいて、それだけ酒が濃くなるのを喜ぶとか、要するに酒飲みの好みとは縁故の薄い特色で、大阪の好みと区別するに過ぎない様に思はわれる。東京で一番大切らしく云ふ「こくがある」と云ふ事は、酒飲みには迷惑な事であつて、特にこくがあると云はれる様な酒は常用に適しない。反対にこくがなくてさらりとした味に、清い香気と色の吟味が酒飲みには一番大切なのであらうと思はわれる。(「酒光漫筆」より)
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寒い間は寝床の中が温いので、朝が遅くなるけれども、夏は早く起きる。学校に通った間は、学生の時も教師になってからも、何十年間ずつと寝坊で毎朝の支度に日日大騒ぎしたが、教師を止めてから窮屈な束縛がなくなると、急に早起きになつた様である。朝寝床を出る時、少しまだ寝たりない気持ちがする時でも、一たん起きて後でまた眠ればいいと云ふ安心があるから、思ひきりがつくのであらふと思ふ。~
朝の支度は、起きると先ず果物を一二種食ふ。梨や林檎は大概半顒宛、桃は大きくても小さくても一つ宛食べる。桃の身は濡れてゐて辷り込むから食つてしまふのである。それと同時に葡萄酒を一杯飲む。大変貴族的な習慣で聞きなりはいいが、常用の葡萄酒は日本薬局方の所謂赤酒である。問屋からまとめて買ふので一本五十二銭である。
家人が部屋の掃除をする間、私は玄関の二畳で新聞をひろげたり、朝の便で配達して来た雑誌の封を切って、一通り中をめくったりする。~
郵便や新聞を見終わる前に、ビスケットを噛つて牛乳を飲む。これで朝飯を終わるのである。ビスケットは英字の形をした余りあまくないのを常用してゐる。アイやエルは劃が少いので口に入れても歯ごたえへがない。ビイやジイは大概腹の穴が潰れて一塊りになってゐるから口の中でもそもそする。さう云ふ色色の形を指先で選り分けて摘んで食べる。それから上厠して最後に顔を洗って、それで朝の支度を終るのである。
何の邪魔も這入らない時は、十時から仕事にかかる。さうしてお午になると蕎麦を食べる。~
夕食の膳では酒を飲む。酒も決して外の時間には口にしない。間ではお行儀のわるい事をすると、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからである。酒は月桂冠の罎詰、麦酒は恵比寿麦酒である。銀座辺りで飲ませる独逸麦酒をうまいと思った事もなく、麒麟麦酒には味があって常用には適しない。平生の口と味の変はるのがいけないのだから、特にうまい酒はうまいと云ふ点で私の嗜好に合はなくなる。いつか灘の白鷹の生詰を飛行機で持って来てくれたので飲んでみると、罎詰の月桂冠より遥かに香りが高くてうまかった。利き酒としての話なら褒め上げるに吝かでないが、私の食膳には常用の味と違ふと云ふ点でその銘酒は失格した。一二杯飲んだだけで、その儘下げて酒塩にしてしまった。
夜は大概仕事をしない。おなかのふくれたところで寝てしまふ。寝る前に机に向ってゐると、智恵分別が上がるにつけて気が立つて中中眠れなくなる様である。夜は安眠する。八時間から十時間ぐらゐ眠るつづける事は何でもない。自分で随分賢いと思ふ事も多いが、こんなに長い時間ぐうぐう寝てゐられるところを見ると、本当は腹のどこかが抜けてゐるのではないかと疑はしくなる事もある。
(「百鬼園日暦」より)
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「おかうこ、かりかり、お茶漬けさぶさぶ」沢庵の事を私の郷里では、かうこと云ふのである。御馳走を食べた後で、口をさっぱりさせる為に、最後の一膳はかうこでお茶漬けにするけれども、貧乏人は初めからお茶漬けですませる。お梅子乞食と云ふ子供を連れた乞食は、いつまでも裏門から這入って来て、手拭を縫ひ合わせた袋の中に、御飯の残りと、沢庵の切れ端とを一緒にうつし込んで貰って「お有り難う様で御座いました」と云って、帰って行った。
沢庵の色は、黄色が黒ずんで、その上に皺があって、皺の中がよごれてゐて、全く貧乏人や乞食の食ふ物だと思った。しかし御飯の時、最後までおかずを食べると、行儀が悪いと云って叱られるのでお茶漬けには、さふ云ふ色のおかうこを、かりかり食った。(「沢庵」より)
~~~~~~~~~~
きらひではないけれど、飲みたいと思ってゐない時に、先方の思ひつきで飲まされるのは迷惑である。後の用事とか予定とか、さふ云ふ事は第二としても、自分のおなかの中の順序に、外部から干渉されるのが、いやなのである。
「折角ですが、どうかお抜きにならないで」
「まあおよろしいでは御座いませんか、大分お強いに伺って居りますわ、宅では主人があんまり行けませんので」~
そこへ女中が鰻丼を持って来る。既に万事休して、このお陰で今晩の食膳が、どんなに不味くなるかと考へると、先ず以って憂鬱になる。
コップが小さくて、おまけに胴中がくびれて、あんまり沢山這入らない様になってゐるから、奥さんのお酌でいくら飲んでも、麦酒を飲んだ気持ちになれない。~
むっとした気持ちで、鰻丼に箸をつけると、因果な事に案外うまかったりして、一粒も残さず食べてしまった後では、おなかが苦しくなって、頭は鬱陶しく、麦酒と一緒にふくれるものだから胸がどきどきし出す。だからこちらの欲せざる時に、外の時なら欲しさうな物を、先方の思ひつきで、勝手に人の前に供せられては、困るのである。(「饗応」より)
~~~~~~~~~~
漱石先生の高足、横暴極まり無き鈴木三重吉さんが目を怒らして云ふ。「内田のヤツ、貧乏だ貧乏だとぼやいてゐるが、あの野郎、家で毎晩カツレツを七八枚喰らひ、人が来れば麦酒を自分一人で一どきに六本も飲んで、その間一度も小便に立たないとほざいてる。それを自慢にしてやがる、あん畜生」
そんなにぼろくそに云はれなくてもいいが、しかし丸で身に覚えのない事ではない。事実無根ではないが、少し説明を加へておく。カツレツと云ふのはビーフカツレツで、当今の様なポークカツレツ、豚カツではない。大正始め頃の話で、豚肉が一般の食用になったのはその後の事である。
初めの頃、御用聞きが来て註文を受け、豚肉を誂へられると、後で経木にくるんだ豚を届けて来る。牛肉は従来通り竹の皮である。白っぽい経木の包みをお勝手の板の間へ置くと、ちょいと、その辺へ、少し離して置いて行ってくれと頼む。そこいらの外の物に触れれば、きたない様な気がした。豚と云ふ物の不潔感、けがれの聯想が、どうせすぐ後で口にするにしても、何となく拭い切れなかつた様である。
そこへ行くと、牛肉は清潔である、などと云ふ理窟はない。小学校の友達の近所の大工が普請の屋根から落ちて死んだ。前の晩に牛肉を食つてゐたので、そのけがれの為だと云ふ。
(「牛カツ豚カツ豆腐」より)
~~~~~~~~~~
十年ばかり前に、夏目純一君が渡欧した時、神戸まで見送りに行った。その帰りに、夏目家の人人と一緒に京都に寄って、京都ホテルに泊まった。泊まったのではない。泊まらしてもらつたのである。別に一室をあてがわれたから、ベッドの上に寝て見たところが、いろいろ勝手が違ふので、気が立つて、ちつとも眠くならなかつた。・・・・(「食而」より)
晩年、 芸術院会員に推薦されるが断った。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ 」と言ったという。これらの随筆の中からでも内田百閒という人の性格や人柄がよくうかがえる。
何事にも”こだわり”を大切にして、”偏屈”でちょっと”我儘”で、それでいて”律儀”で、そしてなによりも”正直”な人だな、と思う。、夏目漱石門下でもある百閒が、「食而」での夏目家の人たちと泊った、いや「泊まったのではない。泊まらしてもらつたのである。」といったところは他の作家によってはそのまま過ごしてしまうこともあると思うが、この人のどこまでも”正直”なところが文章のなかにのぞくのである。
故郷の岡山県への愛郷心は人一倍強く、大手まんぢゅうをはじめ、岡山の食べ物にも強く思い焦がれていた。しかし「大切な思い出を汚したくない」として、恩師の葬儀に一時帰省した以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められやっと帰郷が叶うこととなった。
僕は、この人の独特の”人間的面白味”や人柄、生きざまがとても好きだ。
by kirakuossan
| 2013-12-16 07:48
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