2013年 10月 29日
円仁と円珍 |
2013年10月29日(火)
比叡山と三井寺の対立
入唐八家といわれる高僧に最澄、空海、常暁、円行、恵運、宗叡、そして円仁と円珍があげられる。最澄によって開かれた比叡山延暦寺は、最澄(767~822)のあと座主制がしかれ、初代に最澄の直接の弟子ではない義真が就き、第2代の時に、義真が推薦する円修が就くことになったが、最澄の弟子たちが反対を唱え、結局最澄の愛弟子である円澄に決まる。このとき円修は室生寺に下ることとなる。 そして次の第3代が円仁(794~864)であり、第5代が円珍(814~891)であった。この二人によって天台宗の密教は発展し、良源で完成をみるが、この二人は義真系(円珍)と最澄系(円仁)にわかれており、それぞれの派が対立を起こすことになる。それは日増しに強くなり、ついに円珍系の僧たちは、叡山を下り、麓の三井寺(園城寺)を根拠とするにいたる。
これが長きにわたる三井寺と比叡山の確執で、「山門寺門の抗争」と呼ばれるが、比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけでも10回以上に及んだ。しかし、三井寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、さらに室町幕府においてもその保護を受けた。これは、強力な延暦寺の勢力を牽制するために三井寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられている。行く度かの逆境にあってもいつも盛り返し、そんなことをとらえて「不死鳥の寺」とも称された。
そんな三井寺も、原因は定かでないが1595年(文禄4)豊臣秀吉により寺領の没収を命じられる。それにより三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺の西塔・転法輪堂(釈迦堂)に移された。3年後、秀吉の亡くなる直前に再興を許可されているが、釈迦堂は今も、根本中堂から西へ歩いて20分の所に存在する。この建築物は古く、、南北朝時代の1347年の建立とされる。昨日見て来たが、拝観時刻を過ぎており中には入れなかったが、清楚で厳かな堂である。 円仁は慈覚大師とも呼ばれ、最澄に忠実に仕え、師からも深く愛され、最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。性格は円満にして、眉の太い人物であったと言われ、立石寺(山形)、瑞巌寺(宮城・松島)、浅草寺(東京)など、彼がを開いたり、再興した寺は500以上に及ぶ。
円珍は智証大師と呼ばれ、頭は丸く尖っていて、知性に鋭く、その発せられる言葉には相手を威圧する力を持っていたとされる。ただ、人(円載)に対する中傷や、円満さには欠け、毒舌家であった。でも三井寺では宗祖として尊崇され、国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。
二人とも対立はしたが、天台宗では理解に劣る「密教」を唐に学び、密教においても天台宗を真言宗(空海)の上に置こうとする強い願望は共通のものであった。
比叡山と三井寺の対立
入唐八家といわれる高僧に最澄、空海、常暁、円行、恵運、宗叡、そして円仁と円珍があげられる。最澄によって開かれた比叡山延暦寺は、最澄(767~822)のあと座主制がしかれ、初代に最澄の直接の弟子ではない義真が就き、第2代の時に、義真が推薦する円修が就くことになったが、最澄の弟子たちが反対を唱え、結局最澄の愛弟子である円澄に決まる。このとき円修は室生寺に下ることとなる。
これが長きにわたる三井寺と比叡山の確執で、「山門寺門の抗争」と呼ばれるが、比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけでも10回以上に及んだ。しかし、三井寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、さらに室町幕府においてもその保護を受けた。これは、強力な延暦寺の勢力を牽制するために三井寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられている。行く度かの逆境にあってもいつも盛り返し、そんなことをとらえて「不死鳥の寺」とも称された。
そんな三井寺も、原因は定かでないが1595年(文禄4)豊臣秀吉により寺領の没収を命じられる。それにより三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺の西塔・転法輪堂(釈迦堂)に移された。3年後、秀吉の亡くなる直前に再興を許可されているが、釈迦堂は今も、根本中堂から西へ歩いて20分の所に存在する。この建築物は古く、、南北朝時代の1347年の建立とされる。昨日見て来たが、拝観時刻を過ぎており中には入れなかったが、清楚で厳かな堂である。
円珍は智証大師と呼ばれ、頭は丸く尖っていて、知性に鋭く、その発せられる言葉には相手を威圧する力を持っていたとされる。ただ、人(円載)に対する中傷や、円満さには欠け、毒舌家であった。でも三井寺では宗祖として尊崇され、国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。
二人とも対立はしたが、天台宗では理解に劣る「密教」を唐に学び、密教においても天台宗を真言宗(空海)の上に置こうとする強い願望は共通のものであった。
by kirakuossan
| 2013-10-29 11:31
| 近江抄
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