2013年 09月 13日
今、中東を知るために・・・(2)アフガニスタンの悲劇 |
2013年9月13日(金)
アフガニスタン
アフガニスタンは山岳地帯が大部分を占めており、平野部はごく限られたものに過ぎない。国土の大半は乾燥し、大陸性気候で、夏は暑く、冬は寒い、といった厳しい自然環境にある。その決して恵まれない環境のこの地が、昔より歴史の舞台とされてきた。それは地理的に見て、西のエジプト・カイロ、東の中国・敦煌を結ぶシルクロードの道筋にあたり、東西文明のまさしく十字路であるがため、大国同士の思惑に翻弄され、その国土を土足で踏み荒されてきた過去を持つ。
アフガニスタンは中東には含まれないが、その時々で中東諸国とかかわって来た。それはみな苦い思い出ばかりだ。大国の介入で領土に踏みこまれる反面、米ソそれぞれの思惑で公共施設の整備やあるいは技術支援などの恩恵を受けたことも事実で、50~60年代は急速に近代化が進み、皮肉にも首都カブールは近代オアシス都市を呈する時もあった。しかし、それは束の間で、1973年当時の国王が外遊中にいとこの王子がクーデターを起こし、ソ連の後押しもあって王政は社会主義国家へと急傾斜していく。
アフガニスタンはパシュトゥーン人が50%近く、タジク人が30%で、宗教はスンナ派が85%を占めるイスラム教徒の国である。そんな国が急速に改革が行われて行くと当然摩擦も起きて反体制運動が勃発するようになる。このことはソ連の思惑通りで、国内の混乱を収拾するという名目でアフガニスタンを共産化していく。
アフガニスタン侵攻
1979年12月、ソ連のアフガン侵攻。ソ連が支えるカルマル大統領の政府軍にイスラム指導者が率いるゲリラが反撃する10年におよぶ長い戦いが始まる。ソ連の近代兵器対ゲリラの旧式武器との戦いになるが、アメリカが乗り出しゲリラのムジャヒディン(聖戦士)をバックアップ、大量の武器供与と資金援助を行い、泥沼化していく。もともとイスラームは不正や不義と戦うこと以外、暴力の行使を認めない。しかしイスラームの理想と相容れないことが出現するとそうではない。国や民族は違ってもイスラームの同胞として参戦して来る。それはエジプト、サウジアラビアであったりパキスタンなどの諸国からである。アフガンのゲリラと共に戦いを望む若者たちが集結して来る。そのなかにサウジアラビアからやってくるあのオサマ・ビンラーディンがいた。
ビンラーディンは建築会社を営む大富豪の17番目の子として生れ、最初はごく普通の詩作や軍記物を好んで読む文学青年であった。しかし、サウジアラビアがアメリカと接近し、アメリカ軍隊をサウジ国土に駐留させたことに憤激、ここでもイスラーム法の精神に相容れず、彼はテロリストへと変貌して行く。
ターリバーン登場
1989年、ついにソ連はアフガンから撤退する。聖戦士が勝利したのだ。しかし悲劇はそこでは終わらなかった。ソ連撤退後もゲリラ同士の主導権争い活発となった。侵攻当時の第一の難民が500万人、そしてソ連撤退後の内戦による第二の難民が200万人以上と言われ、国土は荒れに荒れた。そして6年後にようやく力を持った政権が誕生する、それがターリバーンである。ターリバーンは疲弊した国民の支持を得た。しかし反ターリバーンの北部同盟も現れ、事態はますます混迷して行く。暗殺が横行し、、ターリバーンによるバーミヤンの石仏爆破事件なども起こる。
そこへ2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が惹起する。ビン・ラーディン率いるアルカーイダをターリバーンが匿うこととなり、アメリカ軍やイギリス軍によるアフガンへ向けての空爆が開始される。アフガニスタン紛争である。北部同盟がターリバーンを退け、カルザイ暫定政権が樹立される。NATOの管理下にあるなかその後も何度となくテロや暗殺が繰り返されるが、頻繁に変わってきた指導者もカルザイが掌握してからは国民の支持もあってようやく落ち着いたに見えるが、国民の生活は悲惨である。2010年のアフガニスタンのGDPは166億ドル、日本の鳥取県の7割程度の規模しかない。農業と牧畜への依存度が高く、慢性的に食料、衣料、住居、医療施設が不足している。国民の多くが1日2ドル以下で生活しているといわれ、幼児の死亡率は25.7%と極めて高い。これは国の衛生状態が極めて悪い結果だ。
アラブ社会で聖戦は禁止されていた、アラブの土地に異教徒が介入し、居座られても聖戦には撃って出られなかった。しかし、アフガニスタンではそれが打ち破られ侵略者と表する異教徒と戦うことができた。イスラーム諸国からの若者を中心とした多くの戦士たちがアフガニスタンに集結した。そこにアフガニスタンの悲劇があった。
つづく・・・
アフガニスタン
アフガニスタンは山岳地帯が大部分を占めており、平野部はごく限られたものに過ぎない。国土の大半は乾燥し、大陸性気候で、夏は暑く、冬は寒い、といった厳しい自然環境にある。その決して恵まれない環境のこの地が、昔より歴史の舞台とされてきた。それは地理的に見て、西のエジプト・カイロ、東の中国・敦煌を結ぶシルクロードの道筋にあたり、東西文明のまさしく十字路であるがため、大国同士の思惑に翻弄され、その国土を土足で踏み荒されてきた過去を持つ。
アフガニスタンは中東には含まれないが、その時々で中東諸国とかかわって来た。それはみな苦い思い出ばかりだ。大国の介入で領土に踏みこまれる反面、米ソそれぞれの思惑で公共施設の整備やあるいは技術支援などの恩恵を受けたことも事実で、50~60年代は急速に近代化が進み、皮肉にも首都カブールは近代オアシス都市を呈する時もあった。しかし、それは束の間で、1973年当時の国王が外遊中にいとこの王子がクーデターを起こし、ソ連の後押しもあって王政は社会主義国家へと急傾斜していく。
アフガニスタンはパシュトゥーン人が50%近く、タジク人が30%で、宗教はスンナ派が85%を占めるイスラム教徒の国である。そんな国が急速に改革が行われて行くと当然摩擦も起きて反体制運動が勃発するようになる。このことはソ連の思惑通りで、国内の混乱を収拾するという名目でアフガニスタンを共産化していく。
アフガニスタン侵攻
1979年12月、ソ連のアフガン侵攻。ソ連が支えるカルマル大統領の政府軍にイスラム指導者が率いるゲリラが反撃する10年におよぶ長い戦いが始まる。ソ連の近代兵器対ゲリラの旧式武器との戦いになるが、アメリカが乗り出しゲリラのムジャヒディン(聖戦士)をバックアップ、大量の武器供与と資金援助を行い、泥沼化していく。もともとイスラームは不正や不義と戦うこと以外、暴力の行使を認めない。しかしイスラームの理想と相容れないことが出現するとそうではない。国や民族は違ってもイスラームの同胞として参戦して来る。それはエジプト、サウジアラビアであったりパキスタンなどの諸国からである。アフガンのゲリラと共に戦いを望む若者たちが集結して来る。そのなかにサウジアラビアからやってくるあのオサマ・ビンラーディンがいた。
ビンラーディンは建築会社を営む大富豪の17番目の子として生れ、最初はごく普通の詩作や軍記物を好んで読む文学青年であった。しかし、サウジアラビアがアメリカと接近し、アメリカ軍隊をサウジ国土に駐留させたことに憤激、ここでもイスラーム法の精神に相容れず、彼はテロリストへと変貌して行く。
ターリバーン登場
1989年、ついにソ連はアフガンから撤退する。聖戦士が勝利したのだ。しかし悲劇はそこでは終わらなかった。ソ連撤退後もゲリラ同士の主導権争い活発となった。侵攻当時の第一の難民が500万人、そしてソ連撤退後の内戦による第二の難民が200万人以上と言われ、国土は荒れに荒れた。そして6年後にようやく力を持った政権が誕生する、それがターリバーンである。ターリバーンは疲弊した国民の支持を得た。しかし反ターリバーンの北部同盟も現れ、事態はますます混迷して行く。暗殺が横行し、、ターリバーンによるバーミヤンの石仏爆破事件なども起こる。
そこへ2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が惹起する。ビン・ラーディン率いるアルカーイダをターリバーンが匿うこととなり、アメリカ軍やイギリス軍によるアフガンへ向けての空爆が開始される。アフガニスタン紛争である。北部同盟がターリバーンを退け、カルザイ暫定政権が樹立される。NATOの管理下にあるなかその後も何度となくテロや暗殺が繰り返されるが、頻繁に変わってきた指導者もカルザイが掌握してからは国民の支持もあってようやく落ち着いたに見えるが、国民の生活は悲惨である。2010年のアフガニスタンのGDPは166億ドル、日本の鳥取県の7割程度の規模しかない。農業と牧畜への依存度が高く、慢性的に食料、衣料、住居、医療施設が不足している。国民の多くが1日2ドル以下で生活しているといわれ、幼児の死亡率は25.7%と極めて高い。これは国の衛生状態が極めて悪い結果だ。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2013-09-13 05:44
| 海外
|
Trackback