2013年 06月 27日
名著『東洋の理想』 ③ |
2013年6月27日(木)
単一の真理のこのようにさまざまの解釈は、かくして同等の権威をもってはなはだしく異なった衣裳をまとい、不可避的に分派的論争に導いたのであった。はじめは、論争も、主として、この偉大な精神的実践者のもっとも重要な法令であったところの戒律ないしは掟に関するものであったが、後には仏教を無数の宗派に分裂させたがごとき哲学上の立場についての議論を含むようになった。
これは、『東洋の理想』の「仏教とインド芸術」についての岡倉天心の一節であるが、この人の文章は本当に美しい。一見とっつきにくそうで難解な印象を持つがそうではない。ゆっくりと丁寧に順序立てて読んでいくと、美しさの表現の中にもちゃんと的確な意味合いを噛んでふくめてくれるようなところがある。読む者にとっても、心地よい耳触りのするような文章である。こういった文章を真の意味で「名文」というのだろう。立場はそれぞれ違ったが、少なくとも文章の”美しさ”にかけては、小林秀雄や保田與重郎、あるいは吉本隆明や河上徹太郎、吉田秀和をも凌ぐものであろう。
インドのおいては、この初期の仏教の芸術は、これに先立つ叙事詩時代のそれからの自然な成長であった。というのも、ヨーロッパの考古学者たちが好んでするように、その自然の誕生をギリシャの影響によるものとして、仏教以前のインド芸術の存在を否定することは意味のないことだからである。マハーバーラタやラーマーヤナには、英雄的女性の黄金像や華麗な装身具は言うに及ばず、多層の塔や、画廊や、画家の種姓(カスト)などについてしばしば重要な言及が見られる。実際、漂泊の吟遊詩人たちが、のちに叙事詩となるべき民謡を歌っていたこの何百年かの間に、偶像の崇拝がなかったとは想像しがたいことである。・・・
ここでは仏教の時期を3期に分けて、そのインド芸術との関わり合いに触れている。ちょうど活動の次の第2期には日本の奈良時代にあたり、アジャンターの壁画やエローラの石窟は中国、唐の芸術にその霊感を与えることとなる。さらに第3期の”具体的観念論”の時期に、この信仰の影響はチベットに広がり、その地で一方ではラマ教となり、他方ではタントラ教となり、さらに密教として中国および日本に伝わり、平安時代の芸術を創りだすこととなる。
つづく・・・
単一の真理のこのようにさまざまの解釈は、かくして同等の権威をもってはなはだしく異なった衣裳をまとい、不可避的に分派的論争に導いたのであった。はじめは、論争も、主として、この偉大な精神的実践者のもっとも重要な法令であったところの戒律ないしは掟に関するものであったが、後には仏教を無数の宗派に分裂させたがごとき哲学上の立場についての議論を含むようになった。
これは、『東洋の理想』の「仏教とインド芸術」についての岡倉天心の一節であるが、この人の文章は本当に美しい。一見とっつきにくそうで難解な印象を持つがそうではない。ゆっくりと丁寧に順序立てて読んでいくと、美しさの表現の中にもちゃんと的確な意味合いを噛んでふくめてくれるようなところがある。読む者にとっても、心地よい耳触りのするような文章である。こういった文章を真の意味で「名文」というのだろう。立場はそれぞれ違ったが、少なくとも文章の”美しさ”にかけては、小林秀雄や保田與重郎、あるいは吉本隆明や河上徹太郎、吉田秀和をも凌ぐものであろう。
インドのおいては、この初期の仏教の芸術は、これに先立つ叙事詩時代のそれからの自然な成長であった。というのも、ヨーロッパの考古学者たちが好んでするように、その自然の誕生をギリシャの影響によるものとして、仏教以前のインド芸術の存在を否定することは意味のないことだからである。マハーバーラタやラーマーヤナには、英雄的女性の黄金像や華麗な装身具は言うに及ばず、多層の塔や、画廊や、画家の種姓(カスト)などについてしばしば重要な言及が見られる。実際、漂泊の吟遊詩人たちが、のちに叙事詩となるべき民謡を歌っていたこの何百年かの間に、偶像の崇拝がなかったとは想像しがたいことである。・・・
ここでは仏教の時期を3期に分けて、そのインド芸術との関わり合いに触れている。ちょうど活動の次の第2期には日本の奈良時代にあたり、アジャンターの壁画やエローラの石窟は中国、唐の芸術にその霊感を与えることとなる。さらに第3期の”具体的観念論”の時期に、この信仰の影響はチベットに広がり、その地で一方ではラマ教となり、他方ではタントラ教となり、さらに密教として中国および日本に伝わり、平安時代の芸術を創りだすこととなる。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2013-06-27 09:59
| ヒストリー
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