2013年 06月 25日
モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。 |
2013年6月25日(火)
没後30年、小林秀雄の作品を久しぶりに読みなおした。
『モオツァルト』と『無常という事』、二つとも小林秀雄の代表作だが、今回感じたことは、『無常という事』という作品がこんなに短編だったのか、という思いと、『モオツァルト』については氏の確信に満ちた知識と考え方に基づき、独特の推敲で進められる名評論である、ということ。そして嬉しかったのは、確か昔読んだ時は、ほとんど理解に苦しみ最初から投げ出したに記憶しているが、今回は二作品とも味わいながら噛みしめて楽しく読むことが出来たことである。
ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だというのである。
冒頭のこの文章は、ことモーツァルトに関してより的確に上手く言い当てた表現だと思う。
さらに本人も、ト短調の弦楽五重奏曲K516を引き合いに出してこう言う。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない・・・」と、モーツァルトの音楽を悲しいと表現する。
僕も全く同感である。曲調とは裏腹に、どこか醒めた、寂しさが漂っている。また、人が言うほどにはモーツァルトのオペラを好まないが、著者も明快に、そのわけを説明しながらモーツァルトのオペラを否定する。
シンフォニィ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も教えられる処はなかった様に思われる。彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、『フィガロ』のスザンナが演技しない時には、ヴァイオリンが代りに歌うのである。
モーツァルトに関する書物では、他に吉田秀和氏の『モーツァルト』も秀作と思うが、興味深いのは吉田氏が小林氏の『モオツァルト』に関してて印象を述べたことがある。吉田氏の追悼番組で放映された。
「小林さんの文章は、とても手の込んだ工夫のある文章だ。だからとても面白いと思った。でも考え方としては、生意気なようだが・・・あの小林さんの飛躍に充ちた、問題を提起しているようでいて、すぐどっかへ飛んで行っちゃうようなやり方は・・・非常に音楽的とは言えないな・・・カデンツア(句読点)がないんだな、まあ、それがまた小林さんの文章の魅力でもあるけれど・・・」
この両雄の書き記したモーツァルトは、後世に残してくれた貴重な遺産となった。
この文庫本には他に短編が12作品掲載されているが、その中に彼にしては比較的読み易い肩の凝らない作品がある。『真贋』という作品。氏は美術・骨董品の収集家でもあったが自らの体験上の話だけに大変面白い。
先年、良寛の「地震後作」と題した詩軸を得て、得意になって掛けていた。何も良寛の書を理解し合点しているわけではない。ただ買ったというので何となく得意なのである。そういう何の根拠もないうかうかした喜びは一般書画好き通有の喜びであって、専門家の知らぬ貴重な心持ちである。或る晩、吉野秀雄君がやって来た。彼は良寛の研究家である。どうだと言うと黙って見ている。
「地震というのは天明の地震だろう」
「いや、越後の地震だ」
「ああ、そうかね、越後なら越後にしとくよ」
「越後地震後作なんだ」
「どっちだって構わない」
「いや、越後に地震があってね、それからの良寛は、こんな字は書かない」
純粋な喜びははかないものである。糞ッいまいましい、又、引っ掛ったか、と偶々傍に一文字助光の名刀があったから、縦横十文字にバラバラにして了った。
「よく切れるなあ」と吉野君は感心する。
「その刀は何だ」
「お前さんの様な素人には解るまいが、越後だよ、全くよく切れるなあ、何か切ってみたかったんだが、丁度いいや」
軸物を丸めて廊下に放り出し、二人は酒を呑み、いい機嫌であった。
商売人はニセ物という言葉を使いたがらない。ニセ物と言わないと気の済まぬのは素人で、私なんか、あんたみたいにニセ物ニセ物というたらどもならん、などとおこられる。相場の方ははっきりしているのだから、ニセ物という様な徒に人心を刺激する言葉は、言わば禁句にしておく方がいいので、例えば二番手だという、ちと若いと言う、ジョボたれてると言う、みんなニセ物という概念とは違う言葉だが、「二番手」が何番手までを含むか、「若い」が何処まで若いかは曖昧であり、又曖昧である事が必要である。
小林秀雄(1902~1983)は日本を代表する文芸評論家で作家。近代批評の確立者でもあって、独創的な文体を作つた作家でもあった。終戦の翌年に「モオツァルト」を発表。
没後30年、小林秀雄の作品を久しぶりに読みなおした。
『モオツァルト』と『無常という事』、二つとも小林秀雄の代表作だが、今回感じたことは、『無常という事』という作品がこんなに短編だったのか、という思いと、『モオツァルト』については氏の確信に満ちた知識と考え方に基づき、独特の推敲で進められる名評論である、ということ。そして嬉しかったのは、確か昔読んだ時は、ほとんど理解に苦しみ最初から投げ出したに記憶しているが、今回は二作品とも味わいながら噛みしめて楽しく読むことが出来たことである。
ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だというのである。
冒頭のこの文章は、ことモーツァルトに関してより的確に上手く言い当てた表現だと思う。
さらに本人も、ト短調の弦楽五重奏曲K516を引き合いに出してこう言う。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない・・・」と、モーツァルトの音楽を悲しいと表現する。
僕も全く同感である。曲調とは裏腹に、どこか醒めた、寂しさが漂っている。また、人が言うほどにはモーツァルトのオペラを好まないが、著者も明快に、そのわけを説明しながらモーツァルトのオペラを否定する。
シンフォニィ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も教えられる処はなかった様に思われる。彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、『フィガロ』のスザンナが演技しない時には、ヴァイオリンが代りに歌うのである。
モーツァルトに関する書物では、他に吉田秀和氏の『モーツァルト』も秀作と思うが、興味深いのは吉田氏が小林氏の『モオツァルト』に関してて印象を述べたことがある。吉田氏の追悼番組で放映された。
「小林さんの文章は、とても手の込んだ工夫のある文章だ。だからとても面白いと思った。でも考え方としては、生意気なようだが・・・あの小林さんの飛躍に充ちた、問題を提起しているようでいて、すぐどっかへ飛んで行っちゃうようなやり方は・・・非常に音楽的とは言えないな・・・カデンツア(句読点)がないんだな、まあ、それがまた小林さんの文章の魅力でもあるけれど・・・」
この両雄の書き記したモーツァルトは、後世に残してくれた貴重な遺産となった。
この文庫本には他に短編が12作品掲載されているが、その中に彼にしては比較的読み易い肩の凝らない作品がある。『真贋』という作品。氏は美術・骨董品の収集家でもあったが自らの体験上の話だけに大変面白い。
先年、良寛の「地震後作」と題した詩軸を得て、得意になって掛けていた。何も良寛の書を理解し合点しているわけではない。ただ買ったというので何となく得意なのである。そういう何の根拠もないうかうかした喜びは一般書画好き通有の喜びであって、専門家の知らぬ貴重な心持ちである。或る晩、吉野秀雄君がやって来た。彼は良寛の研究家である。どうだと言うと黙って見ている。
「地震というのは天明の地震だろう」
「いや、越後の地震だ」
「ああ、そうかね、越後なら越後にしとくよ」
「越後地震後作なんだ」
「どっちだって構わない」
「いや、越後に地震があってね、それからの良寛は、こんな字は書かない」
純粋な喜びははかないものである。糞ッいまいましい、又、引っ掛ったか、と偶々傍に一文字助光の名刀があったから、縦横十文字にバラバラにして了った。
「よく切れるなあ」と吉野君は感心する。
「その刀は何だ」
「お前さんの様な素人には解るまいが、越後だよ、全くよく切れるなあ、何か切ってみたかったんだが、丁度いいや」
軸物を丸めて廊下に放り出し、二人は酒を呑み、いい機嫌であった。
商売人はニセ物という言葉を使いたがらない。ニセ物と言わないと気の済まぬのは素人で、私なんか、あんたみたいにニセ物ニセ物というたらどもならん、などとおこられる。相場の方ははっきりしているのだから、ニセ物という様な徒に人心を刺激する言葉は、言わば禁句にしておく方がいいので、例えば二番手だという、ちと若いと言う、ジョボたれてると言う、みんなニセ物という概念とは違う言葉だが、「二番手」が何番手までを含むか、「若い」が何処まで若いかは曖昧であり、又曖昧である事が必要である。
小林秀雄(1902~1983)は日本を代表する文芸評論家で作家。近代批評の確立者でもあって、独創的な文体を作つた作家でもあった。終戦の翌年に「モオツァルト」を発表。
by kirakuossan
| 2013-06-25 18:56
| 文芸
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