2013年 05月 06日
『雪山賛歌』発祥の地の”湯” |
2013年5月6日(月)
田山花袋(1872~1930)は
「田舎教師」を書き、藤村と並んで代表的な自然主義作家となった。紀行文にも優れた作品が多く残されており、なかでも温泉好きであった彼が自ら訪れて執筆した温泉に関する紀行文は、明治から大正にかけての古い温泉事情を知るうえに便利で、極めて興味深い文献となる。
大正11年に金星堂から発刊された「温泉周遊」(東の巻、西の巻)を読み進めて行くと、弁舌さわやかに、各温泉の良し悪しが単刀直入に書き記されていて面白い。
軽井沢から沓掛、追分、この間はいかにも荒涼としてゐた。畠など見たくも見られなかった。村らしい村も見受けられなかった。八ヶ岳と蓼科山とが見え出して来た。
御代田、小諸―御代田からは中仙道が右に岐れて行った。ここらあたりから見た和田の大峠の雪は、何とも言へず見事だった。甲州の海の口の方へ向って岐れて行った軌道は、やがては中央線の日の春駅に連絡するといふことがあるが、その沿線には、見るべきものが沢山にあった。内山の奇岩、閼迦留山の洞窟、それからずっと向うに行って、松原湖から八ヶ岳の裾にある本澤温泉、それからずっと諏訪の方へ出て行くことが出来た。
小諸を通り越すと、左に布引山が見え出して来た。それはかなりに大きな岩山で、此処等ではめづらしいものの一つにされてゐた。渓流のないのが、やや殺風景ではあるが、一度は行って見ても好いところであった。汽車は次第に浅間連峰の裾野を上田の方へと向って駛って行った。やがて大屋駅が来た。
此処からは、左すれば霊仙寺の温泉に行くことが出来るし、右して浅間連峰の凹所を越せば、鹿澤温泉に行くことが出来た。共に五六里を隔ててゐたが、霊仙寺の方には軌道が何かが出来てゐて、山の奥であるのに拘らず割合に簡単に行くことが出来た。これに引かへて、鹿澤に行くには、どうしても、徒歩が、馬の背を借りなければならなかった。
上田では、別所の温泉が有名であった。しかし、町から四里も離れてゐるので、以前はちょっと入って行くのに億劫な感じがしたが、今は自動車が汽車の着く毎にそこから出るやうになってゐるので、何の苦もなしに、殆ど足地を踏むことなしに、そこに入って行くことが出来た。
しかしそこはさう大して好い温泉場とも思へなかった。やや俗にすぎてゐた。感じもさう大して深くはなかった。 (東の湯:十章)
東方面から行くと、霊仙寺温泉の奥に位置する鹿教湯温泉(先日行ってお湯が素晴らしかったが)、当時は足場が悪く、ここでは花袋の話にも出てこない。今では認知度は逆かもしれないのに。また、別所温泉が俗っぽくて好ましくないことをはっきりと言っているが、わかる気もする。今では昔ほどには賑わいも無くかえって手ごろかも知れないと思ったりもするが。
それよりも、また新しい温泉、「鹿澤温泉」を花袋に教えてもらった。この温泉は標高1500mの高所にあって、かの有名な愛唱歌『雪山賛歌』を生んだ温泉らしい。ここに一軒宿の「紅葉館」がある。紅葉館は明治2年(1869)の創業、かつては数件の旅館が建ち並んでいたが、大正7年の大火によって消滅、現在一軒だけとなった。
週末からまた蓼科入りするが、さっそく廻り道にはなるが立ち寄ってお湯に浸ろうと思う。上田の街から40~50分だそうだ。
追記;
金星堂という出版会社、あまり聞き慣れないので調べてみると、現在も盛業中である。社名の「金星堂」は田山花袋の提案らしい。当社のHPにこう記されていた。
商号株式会社 金星堂
創業1918(大正7)年9月17日
所在地 東京都千代田区神田神保町3-21
金星堂の歩み
金星堂は福岡益雄により1918年に設立されました。社名は福岡益雄が田山花袋に相談した際に「宵の明星である金星」を社名にしたらどうかとの提案を受けたことに由来します。現在でも書籍を納めるダンボールには田山花袋の筆による金星堂の文字が印刷されています。
1920年代、30年代を通じて、川端康成・今東光等をはじめとする若くて有望な作家達による傑作を数多く世に送りだしました(1926年には川端康成の『伊豆の踊子』を発行)。第2次世界大戦後は、文学から言語(言葉)それ自体への追求へと会社の出版方針を転換し、1950年代以降、主に大学・短大生用の英語・中国語教科書を出版してきました。また教科書のほかにも、一般書、参考書や辞書等の編集にも力を注いでいます。<略>
田山花袋(1872~1930)は
「田舎教師」を書き、藤村と並んで代表的な自然主義作家となった。紀行文にも優れた作品が多く残されており、なかでも温泉好きであった彼が自ら訪れて執筆した温泉に関する紀行文は、明治から大正にかけての古い温泉事情を知るうえに便利で、極めて興味深い文献となる。
大正11年に金星堂から発刊された「温泉周遊」(東の巻、西の巻)を読み進めて行くと、弁舌さわやかに、各温泉の良し悪しが単刀直入に書き記されていて面白い。
軽井沢から沓掛、追分、この間はいかにも荒涼としてゐた。畠など見たくも見られなかった。村らしい村も見受けられなかった。八ヶ岳と蓼科山とが見え出して来た。
御代田、小諸―御代田からは中仙道が右に岐れて行った。ここらあたりから見た和田の大峠の雪は、何とも言へず見事だった。甲州の海の口の方へ向って岐れて行った軌道は、やがては中央線の日の春駅に連絡するといふことがあるが、その沿線には、見るべきものが沢山にあった。内山の奇岩、閼迦留山の洞窟、それからずっと向うに行って、松原湖から八ヶ岳の裾にある本澤温泉、それからずっと諏訪の方へ出て行くことが出来た。
小諸を通り越すと、左に布引山が見え出して来た。それはかなりに大きな岩山で、此処等ではめづらしいものの一つにされてゐた。渓流のないのが、やや殺風景ではあるが、一度は行って見ても好いところであった。汽車は次第に浅間連峰の裾野を上田の方へと向って駛って行った。やがて大屋駅が来た。
此処からは、左すれば霊仙寺の温泉に行くことが出来るし、右して浅間連峰の凹所を越せば、鹿澤温泉に行くことが出来た。共に五六里を隔ててゐたが、霊仙寺の方には軌道が何かが出来てゐて、山の奥であるのに拘らず割合に簡単に行くことが出来た。これに引かへて、鹿澤に行くには、どうしても、徒歩が、馬の背を借りなければならなかった。
上田では、別所の温泉が有名であった。しかし、町から四里も離れてゐるので、以前はちょっと入って行くのに億劫な感じがしたが、今は自動車が汽車の着く毎にそこから出るやうになってゐるので、何の苦もなしに、殆ど足地を踏むことなしに、そこに入って行くことが出来た。
しかしそこはさう大して好い温泉場とも思へなかった。やや俗にすぎてゐた。感じもさう大して深くはなかった。 (東の湯:十章)
東方面から行くと、霊仙寺温泉の奥に位置する鹿教湯温泉(先日行ってお湯が素晴らしかったが)、当時は足場が悪く、ここでは花袋の話にも出てこない。今では認知度は逆かもしれないのに。また、別所温泉が俗っぽくて好ましくないことをはっきりと言っているが、わかる気もする。今では昔ほどには賑わいも無くかえって手ごろかも知れないと思ったりもするが。
それよりも、また新しい温泉、「鹿澤温泉」を花袋に教えてもらった。この温泉は標高1500mの高所にあって、かの有名な愛唱歌『雪山賛歌』を生んだ温泉らしい。ここに一軒宿の「紅葉館」がある。紅葉館は明治2年(1869)の創業、かつては数件の旅館が建ち並んでいたが、大正7年の大火によって消滅、現在一軒だけとなった。
週末からまた蓼科入りするが、さっそく廻り道にはなるが立ち寄ってお湯に浸ろうと思う。上田の街から40~50分だそうだ。
追記;
金星堂という出版会社、あまり聞き慣れないので調べてみると、現在も盛業中である。社名の「金星堂」は田山花袋の提案らしい。当社のHPにこう記されていた。
商号株式会社 金星堂
創業1918(大正7)年9月17日
所在地 東京都千代田区神田神保町3-21
金星堂の歩み
金星堂は福岡益雄により1918年に設立されました。社名は福岡益雄が田山花袋に相談した際に「宵の明星である金星」を社名にしたらどうかとの提案を受けたことに由来します。現在でも書籍を納めるダンボールには田山花袋の筆による金星堂の文字が印刷されています。
1920年代、30年代を通じて、川端康成・今東光等をはじめとする若くて有望な作家達による傑作を数多く世に送りだしました(1926年には川端康成の『伊豆の踊子』を発行)。第2次世界大戦後は、文学から言語(言葉)それ自体への追求へと会社の出版方針を転換し、1950年代以降、主に大学・短大生用の英語・中国語教科書を出版してきました。また教科書のほかにも、一般書、参考書や辞書等の編集にも力を注いでいます。<略>
by kirakuossan
| 2013-05-06 09:47
| 文芸
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