2013年 04月 17日
茂吉の「孫」 |
2013年4月17日(水)
歌人斉藤茂吉に「孫」という短編のエッセイがある。
ちょっと拾い読みしてみると・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
私のところに只今孫が二人居る。一人は昭和二十一年四月生れ、次ぎは昭和二十三年二月生れである。それゆゑ大きい方は今年数へ年五つになるわけだが、満で算へると年が減つて三つになり、小さい方は一つといふことになる。
孫の生れた昭和二十一年四月は、私が山形県の大石田といふところにゐた。孫の母が時たま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送つてくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、私は想像して孫のことをいろいろに思つてゐた。
私が二階に臥てゐると、二人の孫が下の廊下を駆ける音がする。その音を聞いてゐると、何ともいへぬ可愛い感じである。私は、これが孫の可愛い感じといふものだらう、理窟はいろいろあるかも知れんが、吉士が佳女のこゑに心牽かれるやうなものかも知れん、私が医科大学一年生のとき、独逸のヴエルヴオルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫が可愛いなどといふのは、煎じつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかも知れないなどと思ふことがある。
本居宣長は子ども等が邪魔になると云つて、二階の勉強部屋との遮断を工夫して居るが、私も孫が二階にのぼつて来て邪魔をするので板障子を作り、遮断をするやうにした。それでも日に幾度となくのぼつて来て板障子を叩く、知らん振をして居ると、孫はしばらく黙つてそこに居るが、到頭あきらめて降りて行く。その気持は何とも『あはれ』である。この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、叱りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。
私は元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食ふのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べて居るが、私もあのやうなのが好きである。旅して旅館に行つても、女中に給仕して貰はない食事が好きである。これはもつと若い時分からであつて、年寄つてからはますますさういふ傾向になつた。さうであるから、孫どもが私の食事に寄つて来て、何の彼のと要求されるとうるさくて敵はない。うるさいのに、先づ兄が寄つてくる、つづいて弟が寄つてくる。背にかじりついて食べ物を要求する。私の膳から食べものを盗んで食べる。叱つても叱り甲斐がない。そこで私は二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。可愛い孫の所做がこんなにうるさいのだから、私はよほど孤独の食事が好きと見える。美女の給仕などを毫も要求しないのは寧ろ先天的といはなければならない。
今、二人は低い食卓に対ひあつて、食事をして居る。ときどき小さな争ひをして泣くが、また直ぐ仲直りをして、片ことの日本語をいふ。日本語の初歩で、『むつみ合』つて居る。日本語は極めて面倒な国語だと云はれるが、彼等もそれを使ふ運命に置かれてゐる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
斉藤茂吉(1882~1953)は伊藤左千夫門下で、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物である。山形県南村山郡(現上山市)の出で、その後、精神科医ということもあって東京に住みつくが、大戦中に郷里の金瓶に疎開している。間もなく東京の病院、自宅を空襲のため失い、郷里で終戦を迎える。翌年、疎開先の大石田の二藤部兵右衛門の離れに単身移るが、この間に絵筆をとり日本画にも親しんだと言われる。この「孫」には、そのあたりのことも少しふれているが、ここに出てくる大石田は、山形県の山陸部、村上市の近くにあるが、蔵王温泉とは近い。
来週訪れる蔵王温泉「わかまつや」は斉藤茂吉ゆかりの温泉宿として名高い所だ。この旅館で詠んだ歌が遺されている。
たかはらを 越えてのぼり来て
消えるころ ゆきのかたへに われはたたずむ
「孫」を読んでると、あの気難しい風貌をした茂吉が、孫たちに翻弄されている様が思い浮かばれ微笑ましい。いつの時代も、どこの孫も、よく似たもんだ。
歌人斉藤茂吉に「孫」という短編のエッセイがある。
ちょっと拾い読みしてみると・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
私のところに只今孫が二人居る。一人は昭和二十一年四月生れ、次ぎは昭和二十三年二月生れである。それゆゑ大きい方は今年数へ年五つになるわけだが、満で算へると年が減つて三つになり、小さい方は一つといふことになる。
孫の生れた昭和二十一年四月は、私が山形県の大石田といふところにゐた。孫の母が時たま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送つてくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、私は想像して孫のことをいろいろに思つてゐた。
私が二階に臥てゐると、二人の孫が下の廊下を駆ける音がする。その音を聞いてゐると、何ともいへぬ可愛い感じである。私は、これが孫の可愛い感じといふものだらう、理窟はいろいろあるかも知れんが、吉士が佳女のこゑに心牽かれるやうなものかも知れん、私が医科大学一年生のとき、独逸のヴエルヴオルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫が可愛いなどといふのは、煎じつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかも知れないなどと思ふことがある。
本居宣長は子ども等が邪魔になると云つて、二階の勉強部屋との遮断を工夫して居るが、私も孫が二階にのぼつて来て邪魔をするので板障子を作り、遮断をするやうにした。それでも日に幾度となくのぼつて来て板障子を叩く、知らん振をして居ると、孫はしばらく黙つてそこに居るが、到頭あきらめて降りて行く。その気持は何とも『あはれ』である。この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、叱りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。
私は元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食ふのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べて居るが、私もあのやうなのが好きである。旅して旅館に行つても、女中に給仕して貰はない食事が好きである。これはもつと若い時分からであつて、年寄つてからはますますさういふ傾向になつた。さうであるから、孫どもが私の食事に寄つて来て、何の彼のと要求されるとうるさくて敵はない。うるさいのに、先づ兄が寄つてくる、つづいて弟が寄つてくる。背にかじりついて食べ物を要求する。私の膳から食べものを盗んで食べる。叱つても叱り甲斐がない。そこで私は二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。可愛い孫の所做がこんなにうるさいのだから、私はよほど孤独の食事が好きと見える。美女の給仕などを毫も要求しないのは寧ろ先天的といはなければならない。
今、二人は低い食卓に対ひあつて、食事をして居る。ときどき小さな争ひをして泣くが、また直ぐ仲直りをして、片ことの日本語をいふ。日本語の初歩で、『むつみ合』つて居る。日本語は極めて面倒な国語だと云はれるが、彼等もそれを使ふ運命に置かれてゐる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
斉藤茂吉(1882~1953)は伊藤左千夫門下で、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物である。山形県南村山郡(現上山市)の出で、その後、精神科医ということもあって東京に住みつくが、大戦中に郷里の金瓶に疎開している。間もなく東京の病院、自宅を空襲のため失い、郷里で終戦を迎える。翌年、疎開先の大石田の二藤部兵右衛門の離れに単身移るが、この間に絵筆をとり日本画にも親しんだと言われる。この「孫」には、そのあたりのことも少しふれているが、ここに出てくる大石田は、山形県の山陸部、村上市の近くにあるが、蔵王温泉とは近い。
来週訪れる蔵王温泉「わかまつや」は斉藤茂吉ゆかりの温泉宿として名高い所だ。この旅館で詠んだ歌が遺されている。
たかはらを 越えてのぼり来て
消えるころ ゆきのかたへに われはたたずむ
「孫」を読んでると、あの気難しい風貌をした茂吉が、孫たちに翻弄されている様が思い浮かばれ微笑ましい。いつの時代も、どこの孫も、よく似たもんだ。
by kirakuossan
| 2013-04-17 17:08
| 文芸
|
Trackback