2013年 04月 09日
最初からバッハに行くとは到底考えられない |
2013年4月9日(火)
”高等遊民”というのがあった。明治から昭和初期にかけてよく使われた言葉で、大学等の高等教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、とくにこれといった労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のことを言った。青山二郎もそのひとりであった。
クラシック音楽のことを書いた文章がある。取り巻きの小林秀雄や河上徹太郎、大岡昇平に感化されたのでもないだろうが、「西洋の音楽なるものを本当の意味で理解することはできないが、鑑賞することはできる」と述べている。大岡昇平に言わせると「バッハから始めたなんて嘘さ。色んなものを知ってやがって、バッハに行ったんだ」となるが、このことは真理をついていて最初からバッハに行くとは到底考えられないのは事実である。
「レコード気違ひって奴がよくバッハなんてものを担ぐが、バッハに凝ってる野郎に限って、碌なのがゐねえ」―つまり、色んなものを聞いてバッハに行く人間が多いが、バッハと言へばどんづまりだと思ってゐるのだから、そこに何時までもゐる様な人間だったら碌でなしだと言ふのであります。我が国のバッハに対するこの通念は、今日でも未だ何処かで通用してゐる常識かも知れません。
その後、ハイドンを知り、ハイドンは簡単で好きでしたといい、ハイドンから私の耳は音楽を聞くやようになったと告白している。次にオペラのレコードを集めてみたりで、さすが音楽に対しても眼のつけ所が違う、と感心する。ハイドンはともかくとしても、バッハに始まり、ヘンデル、スカルラッティ、クープラン、そしてオペラと・・・まるで通のような聞き方である。でもさすがこれだけの論客でもクラシック音楽に関しての批評については自信がなさそうで腰が引けている。大岡に対しても正面切って言い返せないところが見えて面白い。
【バッハの音楽】
その大岡昇平のことを書いている。
近年、彼は写真器を買ったので、写して歩いた物を見せたことがある。横町の板塀だとか、隣のレールが此方のレールに入って来る線路の所だとか、田舎の駅の待合室だとか、さういふ所ばかり写ってゐる。キット何か小説家らしい必要があって、そんな気で撮ってゐるらしいのだが、それにしても妙な所を写すので可笑しかった。当たり前の大岡が捕へた景色らしい物は何もないのである。大岡の頭の出来ぐあひに、さういふ所があるのではないかと思ふ。
大岡昇平は「ケンカ大岡」と呼ばれるほど論争家で知られ、誰とでも物議を醸すところがあった。井上靖、海音寺潮五郎、松本清張、篠田一士、江藤淳、挙句の果てには森鴎外の「堺事件」は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判して、当時の国文学者との論争までになった。そんな経歴と、変った写真を撮る光景が重なってなにか微笑ましい。
【大岡昇平】
以前にも書いたが、河上徹太郎という人物はなかなかの人だと思っている。氏の書いた文章には無駄がなく、ズバッと真理を突くような書き方で、そのくせ、実に温かみを感じさせる文章である。
河上は小林秀雄、中原中也の親友である様に、私とも当時から浅からぬ友達だった。私の事なぞ持ち出して恐縮であるが、当時は私も一役買ってゐたし、私にして見ればこの四人の関係といふものは多少相前後してゐるが、丁度碁盤の四隅の様なものであった。一隅の一石は他の三隅に対して、銘々が個人的な深い関係を持ってゐる。小林と中原は白石組で、河上と私は黒と言った様なもので、白に対して黒石組の対面交通から友情が発してゐる観があった。 <略> 河上とは月に十日は会ふ晩が、十年も続いたらうか。若い頃は、何年となく毎日会ふ様な習慣が誰にもあったが、河上とはさういふ時期が過ぎてから遺り出したものだ。「今日は三越、明日は帝劇」といふのをモヂって、今日は青山、明日は河上、と大岡昇平が言った頃があった。それだからと言って、河上が酔っ払って外の男になったのを見たことはない。終戦後、彼はずっと田舎に住んでゐるが、歳は争へないもので、小田急の電車の中で押されてアンコが出たりしてゐる。
【交友録を語る著者】
『青山二郎全文集』(青山二郎著:ちくま学芸文庫)より
”高等遊民”って魅かれる言葉だ。”中等”いや”下等遊民”でもいいからそんな生活に憧れる。勿論、日々充実して前向きに生きての話だが。でも歌は”ユーミン”でなく”中島みゆき”の方が好きだ・・・、・・・?何のこっちゃ・・・
”高等遊民”というのがあった。明治から昭和初期にかけてよく使われた言葉で、大学等の高等教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、とくにこれといった労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のことを言った。青山二郎もそのひとりであった。
クラシック音楽のことを書いた文章がある。取り巻きの小林秀雄や河上徹太郎、大岡昇平に感化されたのでもないだろうが、「西洋の音楽なるものを本当の意味で理解することはできないが、鑑賞することはできる」と述べている。大岡昇平に言わせると「バッハから始めたなんて嘘さ。色んなものを知ってやがって、バッハに行ったんだ」となるが、このことは真理をついていて最初からバッハに行くとは到底考えられないのは事実である。
「レコード気違ひって奴がよくバッハなんてものを担ぐが、バッハに凝ってる野郎に限って、碌なのがゐねえ」―つまり、色んなものを聞いてバッハに行く人間が多いが、バッハと言へばどんづまりだと思ってゐるのだから、そこに何時までもゐる様な人間だったら碌でなしだと言ふのであります。我が国のバッハに対するこの通念は、今日でも未だ何処かで通用してゐる常識かも知れません。
その後、ハイドンを知り、ハイドンは簡単で好きでしたといい、ハイドンから私の耳は音楽を聞くやようになったと告白している。次にオペラのレコードを集めてみたりで、さすが音楽に対しても眼のつけ所が違う、と感心する。ハイドンはともかくとしても、バッハに始まり、ヘンデル、スカルラッティ、クープラン、そしてオペラと・・・まるで通のような聞き方である。でもさすがこれだけの論客でもクラシック音楽に関しての批評については自信がなさそうで腰が引けている。大岡に対しても正面切って言い返せないところが見えて面白い。
【バッハの音楽】
その大岡昇平のことを書いている。
近年、彼は写真器を買ったので、写して歩いた物を見せたことがある。横町の板塀だとか、隣のレールが此方のレールに入って来る線路の所だとか、田舎の駅の待合室だとか、さういふ所ばかり写ってゐる。キット何か小説家らしい必要があって、そんな気で撮ってゐるらしいのだが、それにしても妙な所を写すので可笑しかった。当たり前の大岡が捕へた景色らしい物は何もないのである。大岡の頭の出来ぐあひに、さういふ所があるのではないかと思ふ。
大岡昇平は「ケンカ大岡」と呼ばれるほど論争家で知られ、誰とでも物議を醸すところがあった。井上靖、海音寺潮五郎、松本清張、篠田一士、江藤淳、挙句の果てには森鴎外の「堺事件」は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判して、当時の国文学者との論争までになった。そんな経歴と、変った写真を撮る光景が重なってなにか微笑ましい。
【大岡昇平】
以前にも書いたが、河上徹太郎という人物はなかなかの人だと思っている。氏の書いた文章には無駄がなく、ズバッと真理を突くような書き方で、そのくせ、実に温かみを感じさせる文章である。
河上は小林秀雄、中原中也の親友である様に、私とも当時から浅からぬ友達だった。私の事なぞ持ち出して恐縮であるが、当時は私も一役買ってゐたし、私にして見ればこの四人の関係といふものは多少相前後してゐるが、丁度碁盤の四隅の様なものであった。一隅の一石は他の三隅に対して、銘々が個人的な深い関係を持ってゐる。小林と中原は白石組で、河上と私は黒と言った様なもので、白に対して黒石組の対面交通から友情が発してゐる観があった。 <略> 河上とは月に十日は会ふ晩が、十年も続いたらうか。若い頃は、何年となく毎日会ふ様な習慣が誰にもあったが、河上とはさういふ時期が過ぎてから遺り出したものだ。「今日は三越、明日は帝劇」といふのをモヂって、今日は青山、明日は河上、と大岡昇平が言った頃があった。それだからと言って、河上が酔っ払って外の男になったのを見たことはない。終戦後、彼はずっと田舎に住んでゐるが、歳は争へないもので、小田急の電車の中で押されてアンコが出たりしてゐる。
【交友録を語る著者】
『青山二郎全文集』(青山二郎著:ちくま学芸文庫)より
”高等遊民”って魅かれる言葉だ。”中等”いや”下等遊民”でもいいからそんな生活に憧れる。勿論、日々充実して前向きに生きての話だが。でも歌は”ユーミン”でなく”中島みゆき”の方が好きだ・・・、・・・?何のこっちゃ・・・
by kirakuossan
| 2013-04-09 06:08
| 文芸
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