2013年 04月 07日
琳派(光悦・宗達・光琳・乾山)と狩野派 |
2013年4月7日(日)
安土桃山時代から江戸時代にかけて同傾向の表現手法を用いて受け継がれた絵師の流派のひとつに琳派がある。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展させ、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた。”琳”は尾形光琳の名称からつけられた呼び名で、それぞれが独創性に富み、狩野派より日本美術史に遺した足跡は大きいとされる。
バーナード・リーチが光琳について語っていた「四人の藝術家の中では最も劣ると私は考えている。この考えには友人たち数人も同意した。光琳はすばらしく頭のよい人物だが人間的度量は比較的狭いほうだ」というのは、前4人のことで、親の財産を兄弟で分けたが弟乾山は倹約家であったが、兄光琳は遊興三昧の日々を送りだらしなく食いつぶしたというエピソードが残っているし、また、以前は宗達より光琳の方が評価が高かったが、大正以降、宗達の後の画家平福百穂、速水御舟らに与えた影響が大きく、評価は逆転したとされる。
本阿弥光悦(永禄元年/1558~寛永14年/1637)「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また陶芸、漆芸、出版、茶の湯などでその名を残す。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗がよく知られ、諏訪のサンリツ服部美術館にある国宝・楽焼片身替茶碗 銘「不二山」は有名。
俵屋宗達(生没年不詳、慶長から寛永年間に活動)画家。親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代で、1570年代ころの生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時”絵屋”と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵などを制作していたとされる。建仁寺が持つ二曲一双 紙本金地着色の屏風絵「風神雷神図」がとみに有名だ。
尾形光琳(万治元年/1658~享保元年/1716)画家で工芸家。画風は大和絵風を基調にした屏風から香包、扇面、団扇などの小品にいたるまで多岐にわたる。また弟乾山の陶器に光琳が絵付けした作品も残る。宗達とは直接的な師弟関係はないが、光琳の絵に「風神雷神図」のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあることから、光琳が宗達に私淑していたとされる。
尾形乾山(寛文3年/1663~寛保3年/1743)陶工、絵師。早くから光悦の孫光甫や楽一入から手ほどきを受け、仁和寺門前に住む野々村仁清から本格的に陶芸を学んだ。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴がある。6代乾山(1851~1923年)がバーナード・リーチの師である。乾山の作品には大真贋論争を生んだ「佐野乾山」というのがあって1962年、栃木県佐野市の旧家で発見された焼物200点。真作か贋作かが議論を呼び、川端康成は酷評したが、小林秀雄やバーナード・リーチは絶賛したという。
銹藍金絵絵替皿5枚(根津美術館、重要文化財)
琳派は大和絵を基盤とした伝統の下、豊饒な装飾性、絵画を中心とした書や諸工芸をも包括する総合性、そして家系による継承ではなく私淑による断続的継承に大きな特徴があった。一方で、狩野派は親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家の流れで、室町時代中期から江戸末期にいたる、足利氏、信長、秀吉、家康と約4世紀の長きにわたって仕え、継承、画壇に君臨したという点では世界的にも例を見ない。
狩野派の代表的な絵師としては、初代狩野正信(1434~1530)とその嫡男・狩野元信(1476~1559)、元信の孫・狩野永徳(1543~1590)、永徳の孫で狩野探幽(1602~1674)、そして狩野山楽(1559~1635)などが挙げられる。
正信:周茂叔愛蓮図 元信:白衣観音図 永徳:唐獅子図 探幽:雪中梅竹遊禽図襖
狩野派の絵師には個性の表出よりも先祖伝来の筆法を忠実に学ぶことが最優先に求められた。こうしたことから探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったとされる。芸術家の個性表現や内面の表出を尊重する現代においては狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えないが、長きにわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったこともあって狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。事実、近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け狩野派の影響から出発した。琳派の光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。
安土桃山時代から江戸時代にかけて同傾向の表現手法を用いて受け継がれた絵師の流派のひとつに琳派がある。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展させ、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた。”琳”は尾形光琳の名称からつけられた呼び名で、それぞれが独創性に富み、狩野派より日本美術史に遺した足跡は大きいとされる。
バーナード・リーチが光琳について語っていた「四人の藝術家の中では最も劣ると私は考えている。この考えには友人たち数人も同意した。光琳はすばらしく頭のよい人物だが人間的度量は比較的狭いほうだ」というのは、前4人のことで、親の財産を兄弟で分けたが弟乾山は倹約家であったが、兄光琳は遊興三昧の日々を送りだらしなく食いつぶしたというエピソードが残っているし、また、以前は宗達より光琳の方が評価が高かったが、大正以降、宗達の後の画家平福百穂、速水御舟らに与えた影響が大きく、評価は逆転したとされる。
本阿弥光悦(永禄元年/1558~寛永14年/1637)「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また陶芸、漆芸、出版、茶の湯などでその名を残す。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗がよく知られ、諏訪のサンリツ服部美術館にある国宝・楽焼片身替茶碗 銘「不二山」は有名。
俵屋宗達(生没年不詳、慶長から寛永年間に活動)画家。親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代で、1570年代ころの生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時”絵屋”と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵などを制作していたとされる。建仁寺が持つ二曲一双 紙本金地着色の屏風絵「風神雷神図」がとみに有名だ。
尾形光琳(万治元年/1658~享保元年/1716)画家で工芸家。画風は大和絵風を基調にした屏風から香包、扇面、団扇などの小品にいたるまで多岐にわたる。また弟乾山の陶器に光琳が絵付けした作品も残る。宗達とは直接的な師弟関係はないが、光琳の絵に「風神雷神図」のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあることから、光琳が宗達に私淑していたとされる。
尾形乾山(寛文3年/1663~寛保3年/1743)陶工、絵師。早くから光悦の孫光甫や楽一入から手ほどきを受け、仁和寺門前に住む野々村仁清から本格的に陶芸を学んだ。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴がある。6代乾山(1851~1923年)がバーナード・リーチの師である。乾山の作品には大真贋論争を生んだ「佐野乾山」というのがあって1962年、栃木県佐野市の旧家で発見された焼物200点。真作か贋作かが議論を呼び、川端康成は酷評したが、小林秀雄やバーナード・リーチは絶賛したという。
銹藍金絵絵替皿5枚(根津美術館、重要文化財)
琳派は大和絵を基盤とした伝統の下、豊饒な装飾性、絵画を中心とした書や諸工芸をも包括する総合性、そして家系による継承ではなく私淑による断続的継承に大きな特徴があった。一方で、狩野派は親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家の流れで、室町時代中期から江戸末期にいたる、足利氏、信長、秀吉、家康と約4世紀の長きにわたって仕え、継承、画壇に君臨したという点では世界的にも例を見ない。
狩野派の代表的な絵師としては、初代狩野正信(1434~1530)とその嫡男・狩野元信(1476~1559)、元信の孫・狩野永徳(1543~1590)、永徳の孫で狩野探幽(1602~1674)、そして狩野山楽(1559~1635)などが挙げられる。
正信:周茂叔愛蓮図 元信:白衣観音図 永徳:唐獅子図 探幽:雪中梅竹遊禽図襖
狩野派の絵師には個性の表出よりも先祖伝来の筆法を忠実に学ぶことが最優先に求められた。こうしたことから探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったとされる。芸術家の個性表現や内面の表出を尊重する現代においては狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えないが、長きにわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったこともあって狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。事実、近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け狩野派の影響から出発した。琳派の光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。
by kirakuossan
| 2013-04-07 06:03
| 美術
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