2013年 04月 02日
ワルター讃歌 |
2013年4月2日(火)
合唱コンクールでよく歌われる「大地讃頌」や組曲「旅」の作曲家佐藤眞(右)と指揮者で音楽評論家の宇野功芳との対談が面白い。
『宇野功芳編集長の本』(音楽之友社)
漫談家・牧野周一の息子である宇野功芳(1930~)は毒舌と辛口の音楽批評で、よく”独断的な批評”として賛否両論があがることで知られる。「音楽評論家である以上、好き嫌いではなく良し悪しを語らなければならない。」と本人は述べるが、多分にその逆のようではあるが、でも直感的・感覚的な言葉で表現し、演奏の良し悪しを純粋に伝えようとするところがあるのでひとつの判断根拠には大いに役立つ。
時には「あの顔を見れば、およそどのような指揮をする人であるかは一目瞭然だ」といった具合にあまりにも嗜好の偏りが前面にでてしまうが、読む方としてはたいへん面白い。
ハンス・クナッパーツブッシュを第一に評価し、日本での彼の評価を高めた。カラヤンには総じて批判的で、ブルノー・ワルターやカール・シューリヒト、エフゲニー・ムラヴィンスキーに対しては好意的であることには同感で彼の評価を信ずるところが大いにある。ほかに朝比奈隆やオットー・クレンペラーに対しても擁護している節がある。そんな宇野氏だから同業者もみな一目置くところがあって、あえて彼に対して反論しないようにみえる。ところが、この対談での佐藤眞(1938~)は年下とはいえ、ズバズバ自分の思うところを述べ、自論を展開させ、宇野氏もタジタジといったところが大変面白く痛快である。
この対談、ブルノー・ワルター(1876~1962)について色々と論じているのだが、そもそも宇野氏は若い時にワルターと10年近くも文通をしたことがあって親しく、大のワルター擁護者だ。対談の冒頭で果して佐藤氏はどんな発言をするか?
佐藤:「ワルターは指揮者としての特性の非常に優れた人だと思う、いろいろな面でね。だいたい芸術の世界で、平均的に優れているなんていうのは75点平均と云うか、あるいは何かが90点であればほかは0点でもいいみたいになっているけれど、ワルターの場合は全部が95点以上で揃っているような気がする」
宇野:「なるほど、なかなかいいこと言うじゃないか」(顔がほころんでいるのが想像できる)
「田園」では第3楽章以降で話題が盛り上がる。
佐藤:「”嵐の音楽”のベートーヴェンの凄いところは、途中まで行くと今度は嵐が静まってくるだろ?」
宇野:「静まってくる」
佐藤:「そこが長くて、音楽として充実しているんだ。そこは作曲家ではものすごく難しい。なぜかというと長いディミヌエンドをしながら充実した音楽を創って行く、というのは至難の業だ。大変なんだよ。力抜けちゃうの、だいたい。ところがベートーヴェンは抜けないじゃない。豊かな充実した魅力ある音楽で収めて行く」
そこの部分をワルターは巧妙に進めて行くというのだ。ワルターは概して”嵐の音楽”の部分はそう力強くやらない、前半の楽章に比べると、他の演奏に比べてもちょっと迫力が足りないぐらいだ。このことは音楽に造詣の深い小説家・宮城谷昌光も言っていた。ワルターの雷と嵐は”音楽的雷嵐”であって、完全にグ具象画するよりも半具象に留めておいた方が全体のバランスが良い、かえって音楽に奥ゆきを感じさせる。そういうところにワルターの人格が反映されている、ということを。
マーラー「大地の歌」に会話が進み、ここでマーラー論が展開される。
佐藤:「マーラーは”KY”(空気の読めない人)だと思う。例えば第1番のシンフォニーの第3楽章から、もうあれがマーラーですよ。自分勝手にいつまでも続けて行く。しかしマーラーが成功したというのも、また”KY”だったからね」
次に佐藤氏はブラームスの第3番では、ワルターよりクナッパブッシュの演奏の方が良いと言い、クナッパブッシュをあげ、イメージをしっかり持っている指揮者の下ではオーケストラもそれをよく感じて、自分たちのものとしてやっている。そこが才能のある指揮者として素晴らしいところだという。勿論、ワルターだって、アーベントロートだって、そうだという。
佐藤:「ブラームスの3番はシンフォニーの中ではよくないね。第2楽章なんだけれども、管が出て、弦が受けるだろう?フレーズの最後のところを受けるというのはベートーヴェンの第9番の第3楽章の発想なんだ。ベートーヴェンは弦でやって管で受けるだろう?ブラームスはベートーヴェンをよく研究しているんだけど、逆に言うとベートーヴェンの真似ばっかりしてきた」
と、いよいよ絶好調になってきた。対して宇野氏は完全に聞き役に回っている。
佐藤:「ワルターのベートーヴェン1番は非の打ち所がない演奏で、本当にうまいと思うね。それで2番なんだけれど、ワルター・ファンはおよそ第2楽章がいいとかなんとか言うだろうけど・・・」
宇野:「僕も言います」
佐藤:「そうだろう?僕ね、あの4つの楽章の評価は、1,4,3,2楽章の順だと思う。第2楽章が一番落ちる。どうしてかというと、テンポが遅すぎる」
宇野:「いやいや、そんなことはないよ。遅すぎると悪いのかい?」
佐藤:「遅いための悪さが出てるよ」
宇野:「遅いから歌えるんじゃないのか?」
佐藤:「いやいや、あの曲はそういう歌じゃない。それに遅いと、符点のリズムの音型に小気味よさが出ない。とにかく、もうちょっと速い方がいい。テンポはとても大事なことだよね」
この対談、どちらかというと佐藤氏の自論に終始して・・・いやいや佐藤先生の方が一枚上手でありました。
行きつくところ、ふたりの思いは同じで、ワルターはフルトヴェングラーやトスカニーニに決して負けない才能を持った指揮者だった、というところかな。
前にも書いたが、モーツァルト の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、今日的にいえば、あのBGMのような曲を、ひとたびワルターの棒にかかると見事に新鮮な曲として蘇るのである。
いままではどちらかと云えば、3番手にあったブルノー・ワルター。もっともっと聴きこんでいくべき価値をもった指揮者であることには間違いない。
この対談集の宇野氏の発言で印象に残ったのは次の言葉だ。
「ハイドンの晩年の交響曲はモーツァルト より上だと思うけれどな。少なくとも飽きない」
「まあ、遊びだよね。ハイドンって結構遊びがあるんだ。モーツァルト は遊び人のくせに真面目なんだよ、交響曲は」
このことは小生も100%同感。モーツァルト を人はよく明るいとかいうが、彼は決してそうじゃない。どちらかといえばオタク的暗さがある。とくに交響曲は聴いていて退屈してくる、良いのは「リンツ」と40番くらいか。ハイドンの方がずっと楽しい。ピアノ協奏曲は全部素晴らしいのに・・・。
合唱コンクールでよく歌われる「大地讃頌」や組曲「旅」の作曲家佐藤眞(右)と指揮者で音楽評論家の宇野功芳との対談が面白い。
『宇野功芳編集長の本』(音楽之友社)
漫談家・牧野周一の息子である宇野功芳(1930~)は毒舌と辛口の音楽批評で、よく”独断的な批評”として賛否両論があがることで知られる。「音楽評論家である以上、好き嫌いではなく良し悪しを語らなければならない。」と本人は述べるが、多分にその逆のようではあるが、でも直感的・感覚的な言葉で表現し、演奏の良し悪しを純粋に伝えようとするところがあるのでひとつの判断根拠には大いに役立つ。
時には「あの顔を見れば、およそどのような指揮をする人であるかは一目瞭然だ」といった具合にあまりにも嗜好の偏りが前面にでてしまうが、読む方としてはたいへん面白い。
ハンス・クナッパーツブッシュを第一に評価し、日本での彼の評価を高めた。カラヤンには総じて批判的で、ブルノー・ワルターやカール・シューリヒト、エフゲニー・ムラヴィンスキーに対しては好意的であることには同感で彼の評価を信ずるところが大いにある。ほかに朝比奈隆やオットー・クレンペラーに対しても擁護している節がある。そんな宇野氏だから同業者もみな一目置くところがあって、あえて彼に対して反論しないようにみえる。ところが、この対談での佐藤眞(1938~)は年下とはいえ、ズバズバ自分の思うところを述べ、自論を展開させ、宇野氏もタジタジといったところが大変面白く痛快である。
この対談、ブルノー・ワルター(1876~1962)について色々と論じているのだが、そもそも宇野氏は若い時にワルターと10年近くも文通をしたことがあって親しく、大のワルター擁護者だ。対談の冒頭で果して佐藤氏はどんな発言をするか?
佐藤:「ワルターは指揮者としての特性の非常に優れた人だと思う、いろいろな面でね。だいたい芸術の世界で、平均的に優れているなんていうのは75点平均と云うか、あるいは何かが90点であればほかは0点でもいいみたいになっているけれど、ワルターの場合は全部が95点以上で揃っているような気がする」
宇野:「なるほど、なかなかいいこと言うじゃないか」(顔がほころんでいるのが想像できる)
「田園」では第3楽章以降で話題が盛り上がる。
佐藤:「”嵐の音楽”のベートーヴェンの凄いところは、途中まで行くと今度は嵐が静まってくるだろ?」
宇野:「静まってくる」
佐藤:「そこが長くて、音楽として充実しているんだ。そこは作曲家ではものすごく難しい。なぜかというと長いディミヌエンドをしながら充実した音楽を創って行く、というのは至難の業だ。大変なんだよ。力抜けちゃうの、だいたい。ところがベートーヴェンは抜けないじゃない。豊かな充実した魅力ある音楽で収めて行く」
そこの部分をワルターは巧妙に進めて行くというのだ。ワルターは概して”嵐の音楽”の部分はそう力強くやらない、前半の楽章に比べると、他の演奏に比べてもちょっと迫力が足りないぐらいだ。このことは音楽に造詣の深い小説家・宮城谷昌光も言っていた。ワルターの雷と嵐は”音楽的雷嵐”であって、完全にグ具象画するよりも半具象に留めておいた方が全体のバランスが良い、かえって音楽に奥ゆきを感じさせる。そういうところにワルターの人格が反映されている、ということを。
マーラー「大地の歌」に会話が進み、ここでマーラー論が展開される。
佐藤:「マーラーは”KY”(空気の読めない人)だと思う。例えば第1番のシンフォニーの第3楽章から、もうあれがマーラーですよ。自分勝手にいつまでも続けて行く。しかしマーラーが成功したというのも、また”KY”だったからね」
次に佐藤氏はブラームスの第3番では、ワルターよりクナッパブッシュの演奏の方が良いと言い、クナッパブッシュをあげ、イメージをしっかり持っている指揮者の下ではオーケストラもそれをよく感じて、自分たちのものとしてやっている。そこが才能のある指揮者として素晴らしいところだという。勿論、ワルターだって、アーベントロートだって、そうだという。
佐藤:「ブラームスの3番はシンフォニーの中ではよくないね。第2楽章なんだけれども、管が出て、弦が受けるだろう?フレーズの最後のところを受けるというのはベートーヴェンの第9番の第3楽章の発想なんだ。ベートーヴェンは弦でやって管で受けるだろう?ブラームスはベートーヴェンをよく研究しているんだけど、逆に言うとベートーヴェンの真似ばっかりしてきた」
と、いよいよ絶好調になってきた。対して宇野氏は完全に聞き役に回っている。
佐藤:「ワルターのベートーヴェン1番は非の打ち所がない演奏で、本当にうまいと思うね。それで2番なんだけれど、ワルター・ファンはおよそ第2楽章がいいとかなんとか言うだろうけど・・・」
宇野:「僕も言います」
佐藤:「そうだろう?僕ね、あの4つの楽章の評価は、1,4,3,2楽章の順だと思う。第2楽章が一番落ちる。どうしてかというと、テンポが遅すぎる」
宇野:「いやいや、そんなことはないよ。遅すぎると悪いのかい?」
佐藤:「遅いための悪さが出てるよ」
宇野:「遅いから歌えるんじゃないのか?」
佐藤:「いやいや、あの曲はそういう歌じゃない。それに遅いと、符点のリズムの音型に小気味よさが出ない。とにかく、もうちょっと速い方がいい。テンポはとても大事なことだよね」
この対談、どちらかというと佐藤氏の自論に終始して・・・いやいや佐藤先生の方が一枚上手でありました。
行きつくところ、ふたりの思いは同じで、ワルターはフルトヴェングラーやトスカニーニに決して負けない才能を持った指揮者だった、というところかな。
前にも書いたが、モーツァルト の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、今日的にいえば、あのBGMのような曲を、ひとたびワルターの棒にかかると見事に新鮮な曲として蘇るのである。
いままではどちらかと云えば、3番手にあったブルノー・ワルター。もっともっと聴きこんでいくべき価値をもった指揮者であることには間違いない。
この対談集の宇野氏の発言で印象に残ったのは次の言葉だ。
「ハイドンの晩年の交響曲はモーツァルト より上だと思うけれどな。少なくとも飽きない」
「まあ、遊びだよね。ハイドンって結構遊びがあるんだ。モーツァルト は遊び人のくせに真面目なんだよ、交響曲は」
このことは小生も100%同感。モーツァルト を人はよく明るいとかいうが、彼は決してそうじゃない。どちらかといえばオタク的暗さがある。とくに交響曲は聴いていて退屈してくる、良いのは「リンツ」と40番くらいか。ハイドンの方がずっと楽しい。ピアノ協奏曲は全部素晴らしいのに・・・。
by kirakuossan
| 2013-04-02 10:51
| クラシック
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