2013年 03月 11日
蔦温泉を愛した文人 |
2013年3月11日(月)
本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、其山脈南に延びて、南部と津軽とを分ち、更に南下して、東海道と北陸とを分ち、なほ更に西に曲り、山陽道と山陰道とを分つ。長さ数百里、恰も一大長蛇の如し。中国山脈は、其尾也。甲信の群山は其腹也。八甲田山は其頭也。頭に目あり。凡そ三里四方、我国の『山湖』にては最も大なる者也。之を十和田湖と称す。
鳥谷部春汀、一日、来りて我を訪ふ。日光に遊びたりといふ。珍らしや、君の如き旅行嫌ひの人が、日光に遊ぶとは、さても、如何なる風の吹きまはしぞと云へば、日光を見て結構を説きたくもあれど、別に理由あり。我れ此度久しぶりに帰省して母を迎へ来らむとす。そのついでに、君を我郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ、少時、しばしば遊びて、以為へらく、天下の絶景と。されど、他の勝地を知らざれば、これ或は独合点なるかも知れず。依って比較して見むとて、世に名高き日光に遊び、華厳瀑や中禅寺湖を見たるが、我が十和田湖は、之にまさるとも劣らざることを確信しぬ。請ふ、来り看よといふ。これ余に取りては、所謂下地は好きなり、御意はよしといふもの也。喜び勇んで、之に応ず。長谷川天渓も同行する筈なりしが、其兒の病気に為めに果さず。春汀と平福百穂と余の三人、明治四十一年八月二十六日を以て、程に上る。
ここに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『山湖』として、最も偉大なること、一也。奥入瀬の渓流の幽静、天下無比なること、二也。湖の四周の山かばかり樹のしげりたるのは、他に比なきこと三也。紅葉の美、四也。中海の断岸高く、水ふかきこと、他に比なし。五也。諸島みな岩にして、松を帯びたること六也。奥入瀬の本流支流に、高きは松見の瀧、広きは根の口瀧を始めとし、見るべき瀑の多きこと、瀑布多しと称せやるる日光、監原などの比にあらず、七也。その他、自籠神社の危巌、御倉山の千丈幕、御門石、畳石、碁盤石、雅俗とりどりに趣味あり。げに、十和田湖は、風光の美を一つに集めたる、天下有数の勝地也。
1919年に博文館より発刊された『山水めぐり』の中の十和田湖よりの一文だが、この著者が大町桂月(1869~1925)である。彼は高知の出身で、詩人、歌人であり随筆家。博文館に入社し、評論家としても活躍した。美文家として知られ、特に和漢混在の独特な美文の紀行文は当時広く読まれた。現在、彼の評価が低いのは”国粋主義的”とされることに起因しているとされるが、与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難し、これを受けて与謝野晶子は『明星』で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」するという出来事があった。
彼が39歳のとき、五戸町出身の鳥谷部春汀の紹介で初めて十和田湖を訪れ、雄大さや、自然の美しさに感動する。そして十和田湖から奥入瀬渓流沿いに歩いて蔦温泉に到着する。その秋、雑誌『太陽』に「奥羽一周記」と題する紀行文を発表して、十和田の名を一躍全国に知らしめることになる。この文章の一節を読んでいくと、十和田湖の特色を仔細に分析して絶賛しているが、凄い惚れ込みようだ。「住まば日の本 遊ばば十和田 歩けや奥入瀬三里半」
そして蔦温泉を大変気に入り、2度の冬ごもりをして、「蔦温泉帖」「冬籠帖」を書き遺す。冬ごもりには友人の明治大学校歌『白雲なびく』の作詞者・児玉花外も一緒であった。1925年には蔦温泉に本籍を移し、その年5月に雪の八幡岳登山を果たしたが、翌月10日に青葉もえる蔦温泉で56歳の生涯をとじた。「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出湯に身をば清めて」の句を残して。
終生”酒と旅”を愛し続けた。北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。また、酒もこよなく愛し、桂月にはこんな句も残っている。
「酒なくば 桂月 生くといえども死したるに同じ」
桂月の生誕地・高知県土佐には、「桂月」(土佐酒造)という酒がある。
来月、桂月が熱愛したその蔦温泉を訪れて見ようと思う。
本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、其山脈南に延びて、南部と津軽とを分ち、更に南下して、東海道と北陸とを分ち、なほ更に西に曲り、山陽道と山陰道とを分つ。長さ数百里、恰も一大長蛇の如し。中国山脈は、其尾也。甲信の群山は其腹也。八甲田山は其頭也。頭に目あり。凡そ三里四方、我国の『山湖』にては最も大なる者也。之を十和田湖と称す。
鳥谷部春汀、一日、来りて我を訪ふ。日光に遊びたりといふ。珍らしや、君の如き旅行嫌ひの人が、日光に遊ぶとは、さても、如何なる風の吹きまはしぞと云へば、日光を見て結構を説きたくもあれど、別に理由あり。我れ此度久しぶりに帰省して母を迎へ来らむとす。そのついでに、君を我郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ、少時、しばしば遊びて、以為へらく、天下の絶景と。されど、他の勝地を知らざれば、これ或は独合点なるかも知れず。依って比較して見むとて、世に名高き日光に遊び、華厳瀑や中禅寺湖を見たるが、我が十和田湖は、之にまさるとも劣らざることを確信しぬ。請ふ、来り看よといふ。これ余に取りては、所謂下地は好きなり、御意はよしといふもの也。喜び勇んで、之に応ず。長谷川天渓も同行する筈なりしが、其兒の病気に為めに果さず。春汀と平福百穂と余の三人、明治四十一年八月二十六日を以て、程に上る。
1919年に博文館より発刊された『山水めぐり』の中の十和田湖よりの一文だが、この著者が大町桂月(1869~1925)である。彼は高知の出身で、詩人、歌人であり随筆家。博文館に入社し、評論家としても活躍した。美文家として知られ、特に和漢混在の独特な美文の紀行文は当時広く読まれた。現在、彼の評価が低いのは”国粋主義的”とされることに起因しているとされるが、与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難し、これを受けて与謝野晶子は『明星』で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」するという出来事があった。
彼が39歳のとき、五戸町出身の鳥谷部春汀の紹介で初めて十和田湖を訪れ、雄大さや、自然の美しさに感動する。そして十和田湖から奥入瀬渓流沿いに歩いて蔦温泉に到着する。その秋、雑誌『太陽』に「奥羽一周記」と題する紀行文を発表して、十和田の名を一躍全国に知らしめることになる。この文章の一節を読んでいくと、十和田湖の特色を仔細に分析して絶賛しているが、凄い惚れ込みようだ。「住まば日の本 遊ばば十和田 歩けや奥入瀬三里半」
そして蔦温泉を大変気に入り、2度の冬ごもりをして、「蔦温泉帖」「冬籠帖」を書き遺す。冬ごもりには友人の明治大学校歌『白雲なびく』の作詞者・児玉花外も一緒であった。1925年には蔦温泉に本籍を移し、その年5月に雪の八幡岳登山を果たしたが、翌月10日に青葉もえる蔦温泉で56歳の生涯をとじた。「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出湯に身をば清めて」の句を残して。
終生”酒と旅”を愛し続けた。北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。また、酒もこよなく愛し、桂月にはこんな句も残っている。
「酒なくば 桂月 生くといえども死したるに同じ」
桂月の生誕地・高知県土佐には、「桂月」(土佐酒造)という酒がある。
来月、桂月が熱愛したその蔦温泉を訪れて見ようと思う。
by kirakuossan
| 2013-03-11 07:59
| 人
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