2013年 01月 16日
行ってみたいな日本☆Vol.4 歴史の街・会津 |
2013年1月16日(水)
会津若松
あいづわかまつ
(福島県)
会津若松は福島県の山中にある。福島県は太平洋と阿武隈高地にはさまれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈にはさまれた「中通り」、奥羽山脈と越後山脈にはさまれた日本海側の「会津」の3地域に分けられる。福島や郡山が曇っていたら会津では雪だ。それぐらい気候が違うようだ。
会津には以前から行ってみたい衝動に駆られていた。磐梯山があって、周辺に猪苗代湖や五色沼が控え、風光明媚だけでなく、昔から優れた人材を輩出した会津藩の伝統ある所でもある。ただあの地震などの影響で行きそびれてしまった。
鶴ヶ城(若松城)は町の象徴だ。文久2年(1862)、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派志士の取り締まりや京都の治安維持を担ったが、やがて長州藩などの倒幕派の恨みを買うことになり、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発すると、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。新政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰した。
白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。本来は予備兵力であり、およそ340名を擁していた。会津藩では若松城を死守すべく主力部隊は防備に努めたが、新政府軍に対しての劣勢は否めず、ついに本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍することになる。老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあってはやむなしの白虎隊投入であった。一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原で打撃を受けて潰走し、郊外の標高314mの飯盛山へと落ち延びた。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、彼ら総勢20名が自刃を決行した。
【歴史】
もともと会津若松は、至徳元年(1384)の蘆名直盛による黒川城(若松城)築城に遡る。以降、城下町「黒川」は奥州最大の都市として発展を遂げた。天正17年(1589)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地とした。その翌年伊達に代わって蒲生氏郷が入封。町の名も黒川から「若松」へと改められた。またこの城は蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられることになる。氏郷の死後は上杉景勝が入封、その後、蒲生秀行、加藤嘉明などの領主を経て、1643年に徳川秀忠の子保科正之が入封して会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として栄えることとなる。
そういうと北清事変で活躍し、日英同盟締結の影の立役者である柴中佐も会津若松の出身だった。
【名所】
磐梯山
会津富士とか会津磐梯山とも呼ばれ、日本百名山の1つ。猪苗代湖の北にそびえる活火山で標高は1816m、磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属する。磐梯山の麓は南が表磐梯、北が裏磐梯と呼ばれ、表磐梯から見る山体は整った形をしているように見えるが、裏磐梯から見ると、荒々しい姿を見せる。明治21年(1888)7月15日、大噴火が発生、山体崩壊を起こした。このときの爆風と岩屑なだれにより北麓の集落が埋没するなどして500人近い死者を出した。この噴火は明治になってからの初の大災害であり、政府が国を挙げて復旧を実施したという。
猪苗代湖
日本で4番目に広い湖。別名、天鏡湖(てんきょうこ)。弘法大師がこの地を通りかかった際、機を織っていた女に水を乞うが断られてしまう。別の村で米をといでいた翁という名前の貧しい女に米のとぎ水を乞うと、快く飲ませてもらえた。その翌日、磐梯山が噴火して周囲の村が陥没して湖底に沈んでしまったが、翁の家だけは湖底に沈まず、島となった。これが翁島だという伝説が会津地方に伝わる。
御薬園
歴代会津藩主の別荘として使われてきた庭園で、400種類の薬草が植えられている。約600年前、泉のわき出したこの地に別荘を建てたのがはじまりとされ、当時から領民を疫病から救うため薬草園を設けたことから御薬園と呼ばれるようになった。
野口英世記念館
野口英世(1876~1928)は福島県生まれの著名な細菌学者。猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員になった。黄熱病や梅毒等の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に幾度も名前が挙がったが黄熱病の研究中に自身も罹患し、アフリカ・ガーナにて51歳で死去。この記念館は彼の生い立ちや業績を伝える記念館で、やけどをした囲炉裏も残っているとか。
ほかに会津武家屋敷、白虎隊記念館、滝沢本陣、会津酒造歴史館などがある。
【温泉】
東山温泉
山形の上山温泉、湯野浜温泉とともに奥羽三楽郷と呼ばれた。開湯は8世紀後半とも天平年間に行基によってなされたとも伝えられる。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え、会津若松の奥座敷として発展した。あの民謡・小原庄助ゆかりの温泉としても有名だ。
会津藩松平家の別荘から発祥した「新滝」、会津藩指定保養所の歴史を持つ「向瀧」、新撰組副長・土方歳三が戦傷を癒した源泉を持つ「不動滝」など、滝の付く名称の旅館が多い。げんに温泉街付近の湯川には多くの滝があって、“東山四大滝”と呼ばれる。(雨降り滝・原滝・向滝・伏見ヶ滝)
ほかに神指温泉、芦ノ牧温泉などがある。
【名産品】
会津塗
赤べこ
起き上がり小法師
桐工芸品
絵ろうそく
会津本郷焼
1593年に領主・蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりで、その後、瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて本格的に焼き物の基礎を築いた。1800年には有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝えて現在の会津本郷焼の原型が完成する。使われる釉薬に飴いろの光沢をもつ「飴釉」がある。この飴釉を使った代表的な陶器が「鰊鉢」で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。また、磁器では「花椿」をモチーフにした会津焼の伝統を現代に生かすデザインが人気がある。
【酒】
酒は実に豊富にある。福島全体は酒の宝庫だ。幻の酒とされる「飛露喜」(河沼郡)、人気のある「大七」(二本松市)、「奥の松」(二本松市)、「奈良萬」(喜多方市)、「国権」(南会津郡)、そして地元会津若松の「会津娘」、「写楽」、「末廣」らである。
【アクセス】
蓼科tutti → 佐久IC → 藤岡JCT → 高崎JCT → 岩舟JCT →
郡山JCT → 会津若松IC 《370km:4時間15分》
追記:
今年のNHKの大型ドラマ「八重の桜」は会津の女性が主人公らしい。最近、大型ドラマを見ていないので全く知らなかった。ちょっと見てみるか。
NHKのHPによると・・・
「これまで会津藩を描いたドラマといえば白虎隊などに代表される悲劇の物語が中心でした。
その結果、どうしても断片的なエピソードになってしまい、大きな枠で会津藩と会津の人々を描くドラマは少なかったように思います。
その意味でも「八重の桜」は新しい幕末ドラマといえます。
戊辰戦争では、両軍とも自分たちの信ずるところに従って行動した結果だと思いますが、その中でも会津はただ不器用だった。
だから戦争の勝敗で言えば負けたけど、その不器用さの中に、日本人の魂や捨ててはいけないもの、残して伝えていかなければいけない “何か”があるのではないか、と。
その“何か”を会津の風土や人々の気質をふまえて、きちんとドラマにするというのが「八重の桜」のコンセプトであり、それを映像で表現することが美術チームの仕事だと考えています。
会津若松
あいづわかまつ
(福島県)
会津若松は福島県の山中にある。福島県は太平洋と阿武隈高地にはさまれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈にはさまれた「中通り」、奥羽山脈と越後山脈にはさまれた日本海側の「会津」の3地域に分けられる。福島や郡山が曇っていたら会津では雪だ。それぐらい気候が違うようだ。
会津には以前から行ってみたい衝動に駆られていた。磐梯山があって、周辺に猪苗代湖や五色沼が控え、風光明媚だけでなく、昔から優れた人材を輩出した会津藩の伝統ある所でもある。ただあの地震などの影響で行きそびれてしまった。
鶴ヶ城(若松城)は町の象徴だ。文久2年(1862)、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派志士の取り締まりや京都の治安維持を担ったが、やがて長州藩などの倒幕派の恨みを買うことになり、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発すると、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。新政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰した。
白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。本来は予備兵力であり、およそ340名を擁していた。会津藩では若松城を死守すべく主力部隊は防備に努めたが、新政府軍に対しての劣勢は否めず、ついに本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍することになる。老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあってはやむなしの白虎隊投入であった。一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原で打撃を受けて潰走し、郊外の標高314mの飯盛山へと落ち延びた。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、彼ら総勢20名が自刃を決行した。
【歴史】
もともと会津若松は、至徳元年(1384)の蘆名直盛による黒川城(若松城)築城に遡る。以降、城下町「黒川」は奥州最大の都市として発展を遂げた。天正17年(1589)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地とした。その翌年伊達に代わって蒲生氏郷が入封。町の名も黒川から「若松」へと改められた。またこの城は蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられることになる。氏郷の死後は上杉景勝が入封、その後、蒲生秀行、加藤嘉明などの領主を経て、1643年に徳川秀忠の子保科正之が入封して会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として栄えることとなる。
そういうと北清事変で活躍し、日英同盟締結の影の立役者である柴中佐も会津若松の出身だった。
【名所】
会津富士とか会津磐梯山とも呼ばれ、日本百名山の1つ。猪苗代湖の北にそびえる活火山で標高は1816m、磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属する。磐梯山の麓は南が表磐梯、北が裏磐梯と呼ばれ、表磐梯から見る山体は整った形をしているように見えるが、裏磐梯から見ると、荒々しい姿を見せる。明治21年(1888)7月15日、大噴火が発生、山体崩壊を起こした。このときの爆風と岩屑なだれにより北麓の集落が埋没するなどして500人近い死者を出した。この噴火は明治になってからの初の大災害であり、政府が国を挙げて復旧を実施したという。
猪苗代湖
日本で4番目に広い湖。別名、天鏡湖(てんきょうこ)。弘法大師がこの地を通りかかった際、機を織っていた女に水を乞うが断られてしまう。別の村で米をといでいた翁という名前の貧しい女に米のとぎ水を乞うと、快く飲ませてもらえた。その翌日、磐梯山が噴火して周囲の村が陥没して湖底に沈んでしまったが、翁の家だけは湖底に沈まず、島となった。これが翁島だという伝説が会津地方に伝わる。
御薬園
歴代会津藩主の別荘として使われてきた庭園で、400種類の薬草が植えられている。約600年前、泉のわき出したこの地に別荘を建てたのがはじまりとされ、当時から領民を疫病から救うため薬草園を設けたことから御薬園と呼ばれるようになった。
野口英世記念館
野口英世(1876~1928)は福島県生まれの著名な細菌学者。猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員になった。黄熱病や梅毒等の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に幾度も名前が挙がったが黄熱病の研究中に自身も罹患し、アフリカ・ガーナにて51歳で死去。この記念館は彼の生い立ちや業績を伝える記念館で、やけどをした囲炉裏も残っているとか。
ほかに会津武家屋敷、白虎隊記念館、滝沢本陣、会津酒造歴史館などがある。
【温泉】
東山温泉
山形の上山温泉、湯野浜温泉とともに奥羽三楽郷と呼ばれた。開湯は8世紀後半とも天平年間に行基によってなされたとも伝えられる。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え、会津若松の奥座敷として発展した。あの民謡・小原庄助ゆかりの温泉としても有名だ。
会津藩松平家の別荘から発祥した「新滝」、会津藩指定保養所の歴史を持つ「向瀧」、新撰組副長・土方歳三が戦傷を癒した源泉を持つ「不動滝」など、滝の付く名称の旅館が多い。げんに温泉街付近の湯川には多くの滝があって、“東山四大滝”と呼ばれる。(雨降り滝・原滝・向滝・伏見ヶ滝)
ほかに神指温泉、芦ノ牧温泉などがある。
【名産品】
会津塗
赤べこ
起き上がり小法師
桐工芸品
絵ろうそく
会津本郷焼
1593年に領主・蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりで、その後、瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて本格的に焼き物の基礎を築いた。1800年には有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝えて現在の会津本郷焼の原型が完成する。使われる釉薬に飴いろの光沢をもつ「飴釉」がある。この飴釉を使った代表的な陶器が「鰊鉢」で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。また、磁器では「花椿」をモチーフにした会津焼の伝統を現代に生かすデザインが人気がある。
【酒】
酒は実に豊富にある。福島全体は酒の宝庫だ。幻の酒とされる「飛露喜」(河沼郡)、人気のある「大七」(二本松市)、「奥の松」(二本松市)、「奈良萬」(喜多方市)、「国権」(南会津郡)、そして地元会津若松の「会津娘」、「写楽」、「末廣」らである。
【アクセス】
蓼科tutti → 佐久IC → 藤岡JCT → 高崎JCT → 岩舟JCT →
郡山JCT → 会津若松IC 《370km:4時間15分》
追記:
今年のNHKの大型ドラマ「八重の桜」は会津の女性が主人公らしい。最近、大型ドラマを見ていないので全く知らなかった。ちょっと見てみるか。
NHKのHPによると・・・
「これまで会津藩を描いたドラマといえば白虎隊などに代表される悲劇の物語が中心でした。
その結果、どうしても断片的なエピソードになってしまい、大きな枠で会津藩と会津の人々を描くドラマは少なかったように思います。
その意味でも「八重の桜」は新しい幕末ドラマといえます。
戊辰戦争では、両軍とも自分たちの信ずるところに従って行動した結果だと思いますが、その中でも会津はただ不器用だった。
だから戦争の勝敗で言えば負けたけど、その不器用さの中に、日本人の魂や捨ててはいけないもの、残して伝えていかなければいけない “何か”があるのではないか、と。
その“何か”を会津の風土や人々の気質をふまえて、きちんとドラマにするというのが「八重の桜」のコンセプトであり、それを映像で表現することが美術チームの仕事だと考えています。
by kirakuossan
| 2013-01-16 08:25
| 新日本紀行
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