2013年 01月 10日
小御所会議で流れ変わる |
2013年1月10日(木)
渡部昇一著の『日本史<決定版>』⑫
桜田門外の変から大政奉還へと一気に進んだ思想的背景には「王政復古」と考え方があった。実際に王政復古が実現するまでは紆余曲折があったが、もっとも説得力のあったのは「公武合体論」。つまり政治には公家も参加するが、実際は朝廷より委任された幕府および大大名が行うというものであった。それは今まで慣習化されていたいたものを再確認するものではあったが、そうはすんなりといかなかった。徳富蘇峰が云うには「徳川幕府をつくった出発点は関ヶ原の戦いだとすれば、徳川幕府を終えたのは小御所会議である」ということになる。
「徳川慶喜が慶応三年(1867)に大政奉還を申し出る。これは土佐の山内容堂の案であったといわれるが、おそらく後藤象二郎の意見であろう。慶喜にしてみれば、政権を返上しても、ほかに誰も政治をやった者がいないのだから、自ずと徳川家が再び政治を執り行うことになるであろうと考えていたようである。ところが、これは徳川家にとって致命的な失敗だった。なぜ失敗なのかといえば、ひとたび政権を返上してしまえば徳川家はほかの大名家と同列の立場になってしまうからである。それに慶喜は気づいていなかった。」
そこで慶喜が将軍を退いたあとをどうするかを話し合うために京都御所で小御所会議が開かれる。
「小御所会議には皇族や公家の代表、主な大名およびその家来が集まった。また明治天皇が初めて、御簾の奥にご出席になった。近代日本の最初の御前会議である。だが、ここに大名中の大名である徳川慶喜が呼ばれていなかった。これを見た山内容堂は、「この会議に慶喜を呼ばないのは何ごとであるか、ここに集まっている者たちは天皇がお若いのをいいことに、自分が天下を取ろうとしているのではないか」という発言をする。その言葉じりをとらえて公家の代表として出席していた岩倉具視が「天皇がお若いのをいいことに勝手なことをするとは何ごとであるか。天皇はお若いとはいえ英邁なるお方である。なんたる失礼なことをいうのだ」と怒ってみせた。天皇が若いことを理由にするのは、天皇が頼りにならないといっているようなものである。それに気づいた山内容堂は恐れ入って、それ以上発言できなかった。それを見て、今度は大久保利通が次のように発言した。「慶喜がここに出席するためには、まず慶喜が恭願の意を示し、徳川の領地をすべて差し出すべきではないか」と。そこから会議は岩倉。大久保の線で慶喜討伐まで一直線に突き進むのである。」
徳富蘇峰は言う。「山内容堂・後藤象二郎に対する岩倉具視・大久保利通の四人の決闘だった。もし小御所会議が無記名投票で行われていたら公武合体の方へ動いただろうが・・・」
「山内容堂の発言にかみついた岩倉と大久保の議論で”公武合体”は”倒幕親政”へと変わってしまったのである。」
そしてそのあとすぐに「鳥羽伏見の戦い」が起こるのだが、なにぶんにも慶喜に戦闘意欲が全くなく、早々と先に大坂城をあとにして江戸へ逃げ帰ってしまうものだから、幕府軍はあっさりと負けてしまう。
「もしもこのとき慶喜が戦う気を見せていれば、日本は内乱状態になったであろう。勝敗もどちらに転んだかわからない。というのは、薩長方には軍艦がほとんどなかったのに対し、幕府は何隻もの軍艦を持っていたからである。<略>しかし、ぜひ戦わせてくれ、という小栗上野介を振り切って、慶喜は退いてしまう。すると今度は、その志を受けた勝海舟が西郷隆盛と一対一で話し合って、江戸城を無血開城してしまうのである。」
「これを革命といってもいいと考える歴史家もいるようだが、私は、革命を起こされた側のトップに君臨する慶喜が殺されず罰せられないのだから、革命とはいえないのではないかとも思う。日本の歴史に独特な”国体の変化”というべきであろう。ただし、勤皇側が特に憎んだ人物が二人いた。小栗上野介と京都で志士たちを斬りまくった新撰組の近藤勇である。この二人は殺されているが、これは例外といってよいだろう。」
いよいよ明治維新である。
つづく---
渡部昇一著の『日本史<決定版>』⑫
桜田門外の変から大政奉還へと一気に進んだ思想的背景には「王政復古」と考え方があった。実際に王政復古が実現するまでは紆余曲折があったが、もっとも説得力のあったのは「公武合体論」。つまり政治には公家も参加するが、実際は朝廷より委任された幕府および大大名が行うというものであった。それは今まで慣習化されていたいたものを再確認するものではあったが、そうはすんなりといかなかった。徳富蘇峰が云うには「徳川幕府をつくった出発点は関ヶ原の戦いだとすれば、徳川幕府を終えたのは小御所会議である」ということになる。
「徳川慶喜が慶応三年(1867)に大政奉還を申し出る。これは土佐の山内容堂の案であったといわれるが、おそらく後藤象二郎の意見であろう。慶喜にしてみれば、政権を返上しても、ほかに誰も政治をやった者がいないのだから、自ずと徳川家が再び政治を執り行うことになるであろうと考えていたようである。ところが、これは徳川家にとって致命的な失敗だった。なぜ失敗なのかといえば、ひとたび政権を返上してしまえば徳川家はほかの大名家と同列の立場になってしまうからである。それに慶喜は気づいていなかった。」
そこで慶喜が将軍を退いたあとをどうするかを話し合うために京都御所で小御所会議が開かれる。
「小御所会議には皇族や公家の代表、主な大名およびその家来が集まった。また明治天皇が初めて、御簾の奥にご出席になった。近代日本の最初の御前会議である。だが、ここに大名中の大名である徳川慶喜が呼ばれていなかった。これを見た山内容堂は、「この会議に慶喜を呼ばないのは何ごとであるか、ここに集まっている者たちは天皇がお若いのをいいことに、自分が天下を取ろうとしているのではないか」という発言をする。その言葉じりをとらえて公家の代表として出席していた岩倉具視が「天皇がお若いのをいいことに勝手なことをするとは何ごとであるか。天皇はお若いとはいえ英邁なるお方である。なんたる失礼なことをいうのだ」と怒ってみせた。天皇が若いことを理由にするのは、天皇が頼りにならないといっているようなものである。それに気づいた山内容堂は恐れ入って、それ以上発言できなかった。それを見て、今度は大久保利通が次のように発言した。「慶喜がここに出席するためには、まず慶喜が恭願の意を示し、徳川の領地をすべて差し出すべきではないか」と。そこから会議は岩倉。大久保の線で慶喜討伐まで一直線に突き進むのである。」
徳富蘇峰は言う。「山内容堂・後藤象二郎に対する岩倉具視・大久保利通の四人の決闘だった。もし小御所会議が無記名投票で行われていたら公武合体の方へ動いただろうが・・・」
「山内容堂の発言にかみついた岩倉と大久保の議論で”公武合体”は”倒幕親政”へと変わってしまったのである。」
そしてそのあとすぐに「鳥羽伏見の戦い」が起こるのだが、なにぶんにも慶喜に戦闘意欲が全くなく、早々と先に大坂城をあとにして江戸へ逃げ帰ってしまうものだから、幕府軍はあっさりと負けてしまう。
「もしもこのとき慶喜が戦う気を見せていれば、日本は内乱状態になったであろう。勝敗もどちらに転んだかわからない。というのは、薩長方には軍艦がほとんどなかったのに対し、幕府は何隻もの軍艦を持っていたからである。<略>しかし、ぜひ戦わせてくれ、という小栗上野介を振り切って、慶喜は退いてしまう。すると今度は、その志を受けた勝海舟が西郷隆盛と一対一で話し合って、江戸城を無血開城してしまうのである。」
「これを革命といってもいいと考える歴史家もいるようだが、私は、革命を起こされた側のトップに君臨する慶喜が殺されず罰せられないのだから、革命とはいえないのではないかとも思う。日本の歴史に独特な”国体の変化”というべきであろう。ただし、勤皇側が特に憎んだ人物が二人いた。小栗上野介と京都で志士たちを斬りまくった新撰組の近藤勇である。この二人は殺されているが、これは例外といってよいだろう。」
いよいよ明治維新である。
つづく---
by kirakuossan
| 2013-01-10 16:11
| ヒストリー
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