2013年 01月 07日
鎌倉幕府を支えた北条政子 |
2013年1月7日(月)
渡部昇一著の『日本史<決定版>』③
源平合戦であれほどまでに活躍した弟義経を、頼朝はなぜ嫌ったか。頼朝は父義朝の三男ではあるが、兄二人が平治の乱で亡くなっており、自分が最年長であった。また母は熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘で飛びぬけて位が高かった。それに比べて義経は九男で、しかも母常盤御前は宮廷の召使にあたる身分で極めて低い、その上に後に清盛の女性にもなっている。
頼朝は図抜けて頭の良い人物で、皇室についての野心はなく、高い位にも関心がなかった。あったのはただ、武士はすべて自分の家来である立場を貫き、武士は自分が押さえるといった一点だけを重んじた人である。この辺の物の考え方の根本から義経とは違いがあった。頼朝は義経を謀殺しようとするが、妾の静御前の機転でいったんは難を逃れるが、やがて逃げ延びた奥州の藤原秀衡の息子に討たれる運命になる。
賢い頼朝は天下の支配体制を敷く時にも義経を利用した。
「京から逃げた義経を追うために、全国の行政・軍事・警察権を持つそう総追捕使という位を朝廷からもらい、義経追討の名目で守護・地頭を置いた。<略>
「この守護・地頭によって、頼朝はあっという間に全国を自分の御家人で占める体制を築き上げてしまった。」
九州の島津氏、中国の毛利氏も御家人となった。あくまで宮廷に野心を示さない頼朝は鎌倉から決して動かなかった。そして1192年(建久3年)鎌倉に幕府を開く。
しかし、頼朝が腹違いの兄弟を次々と殺害したために、そのあとを継ぐ者が息子の頼家と実朝の二人しかいない状況に陥る。二人とも非業の死を遂げ、源氏はあっけなく滅んでしまう。
「こうして見ると源氏と平家の終わり方というのは非常に対照的である。平家の最後は華やかで、戦場で滅びはしたけれど、厳島神社の平家納経のように後世に残る文化を遺した。
一方の源氏は鎌倉幕府を遺したが、一族は骨肉の争いと肉親の暗殺で滅びてしまうのである。」
頼朝亡きあとを引き継いだのは実質的には頼朝の妻である北条政子(北条時政の長女)と北条家。政子の決断で挙兵、討幕を目論む後鳥羽上皇を破り、その後の天皇を決める時も鎌倉幕府の意見が重んじられるようにする。これを承久の乱と呼ぶ。
「日本の国体は変化すれども断絶せずというのは、日本史および日本人の国民性を考えるうえでのキーポイントである。
1回目の国体変化は、第三十一代用明天皇の仏教改宗である。
2回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたことによって起こった。宮廷と関係なく天下を武力で征服し、守護・地頭を置いた。これは政治の原理の根本的変化である。
そして3回目の承久の乱では、三人の上皇(後鳥羽、順徳、土御門)を島流しにした。さらに順徳上皇の子で四歳だった仲恭天皇は在位わずか七十日で幕府によって廃された。これ以降、皇位継承を幕府が管理することになった。<略>これはある意味では主権在民のようなもので、大きな国体の変化である。
ついでにいっておけば、4回目の国体変化は明治憲法の発布であり、5回目は敗戦による占領憲法の制定である。」
そういった意味では鎌倉幕府は民主的な政権といえる。これらの思想は頼朝側近の大江広元を通じて北条氏に伝わった唐の太宗がまとめた統治者のあるべき姿を教えた『貞観政要』の存在とされる。
つづく---
渡部昇一著の『日本史<決定版>』③
源平合戦であれほどまでに活躍した弟義経を、頼朝はなぜ嫌ったか。頼朝は父義朝の三男ではあるが、兄二人が平治の乱で亡くなっており、自分が最年長であった。また母は熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘で飛びぬけて位が高かった。それに比べて義経は九男で、しかも母常盤御前は宮廷の召使にあたる身分で極めて低い、その上に後に清盛の女性にもなっている。
頼朝は図抜けて頭の良い人物で、皇室についての野心はなく、高い位にも関心がなかった。あったのはただ、武士はすべて自分の家来である立場を貫き、武士は自分が押さえるといった一点だけを重んじた人である。この辺の物の考え方の根本から義経とは違いがあった。頼朝は義経を謀殺しようとするが、妾の静御前の機転でいったんは難を逃れるが、やがて逃げ延びた奥州の藤原秀衡の息子に討たれる運命になる。
賢い頼朝は天下の支配体制を敷く時にも義経を利用した。
「京から逃げた義経を追うために、全国の行政・軍事・警察権を持つそう総追捕使という位を朝廷からもらい、義経追討の名目で守護・地頭を置いた。<略>
「この守護・地頭によって、頼朝はあっという間に全国を自分の御家人で占める体制を築き上げてしまった。」
九州の島津氏、中国の毛利氏も御家人となった。あくまで宮廷に野心を示さない頼朝は鎌倉から決して動かなかった。そして1192年(建久3年)鎌倉に幕府を開く。
しかし、頼朝が腹違いの兄弟を次々と殺害したために、そのあとを継ぐ者が息子の頼家と実朝の二人しかいない状況に陥る。二人とも非業の死を遂げ、源氏はあっけなく滅んでしまう。
「こうして見ると源氏と平家の終わり方というのは非常に対照的である。平家の最後は華やかで、戦場で滅びはしたけれど、厳島神社の平家納経のように後世に残る文化を遺した。
一方の源氏は鎌倉幕府を遺したが、一族は骨肉の争いと肉親の暗殺で滅びてしまうのである。」
頼朝亡きあとを引き継いだのは実質的には頼朝の妻である北条政子(北条時政の長女)と北条家。政子の決断で挙兵、討幕を目論む後鳥羽上皇を破り、その後の天皇を決める時も鎌倉幕府の意見が重んじられるようにする。これを承久の乱と呼ぶ。
「日本の国体は変化すれども断絶せずというのは、日本史および日本人の国民性を考えるうえでのキーポイントである。
1回目の国体変化は、第三十一代用明天皇の仏教改宗である。
2回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたことによって起こった。宮廷と関係なく天下を武力で征服し、守護・地頭を置いた。これは政治の原理の根本的変化である。
そして3回目の承久の乱では、三人の上皇(後鳥羽、順徳、土御門)を島流しにした。さらに順徳上皇の子で四歳だった仲恭天皇は在位わずか七十日で幕府によって廃された。これ以降、皇位継承を幕府が管理することになった。<略>これはある意味では主権在民のようなもので、大きな国体の変化である。
ついでにいっておけば、4回目の国体変化は明治憲法の発布であり、5回目は敗戦による占領憲法の制定である。」
そういった意味では鎌倉幕府は民主的な政権といえる。これらの思想は頼朝側近の大江広元を通じて北条氏に伝わった唐の太宗がまとめた統治者のあるべき姿を教えた『貞観政要』の存在とされる。
つづく---
by kirakuossan
| 2013-01-07 22:33
| ヒストリー
|
Trackback