2012年 09月 08日
名著の”名序” |
2012年9月8日(土)
河上徹太郎の文章は一言でいえば”簡潔明瞭”。持って廻ったところがない。それでいて単調かというとそうでもない。その短い文章表現の中に自分の主張、読者に伝えたいことがすべて凝縮されたかたちで記されている。
だから読む者にとっては、一種、切れの味の良さ、思い切りの良さが感じととられて気持ちよく極めて痛快に読み続けることができる。また、戻って読み直さないと理解しにくいといったこともない。一語一句に無駄がなく文字で表現するということに関しては完璧なのだ。そして素晴らしいのは、ズバッと短い言葉で書き記されていてもその裏にこの人の持つ頑固さ、優しさが並列して現れ、人間としての崇高さまでが感じとれるのである。
昭和廿二年十二月新潮社発行の『ベートーヴェン』(河上徹太郎著)の「序」の文章より。
序
近世ヨーロッパ音樂を代表する音樂家は、私は矢張り十八世紀後半のドイツの四大樂聖、即ちバッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの四人であると思ふ。その中で、特にベートーヴェンが偉大である所以のものは、彼が、恰も文學に於けるゲーテの如く、全人的な音樂家であつたためだと思ってゐる。即ち意志と努力と魂の至純さのすべてを賭けて、あれだけの音樂を創造したことで、その點で彼の音樂が、素質や才能の點で彼を凌ぐ前三者の音樂よりも豊かで大きくなり得たのである。
<略>
それに元来我々外國人が、考證の點でいくら頑張った所で、既に本國の音樂學者によつて編まれた汗牛充棟のベートーヴェン傳記以上のものが書ける筈はない。うまくいつて彼等の考證を上手に繼ぎはぎした、受け売りしか出来ないのである。かかる時、私に遺された唯一の道は、彼の音樂が直接私に與へる生々しい感動に頼るのみである。そして此の感動こそ、私が生きてゐるのが確實な如く、確實なベートーヴェンの姿である。私は此の姿を唯一の頼りにして、此の傳記を書いた。成果は讀者の自由な批判を待つ許りである。
二六〇二年三月 河上徹太郎
なにかこの「序」を読んだだけで、圧倒されてしまう。県立図書館の書庫に深く眠っていたこの70年前の古書を引っ張り出し、今ここにあることすら感動ものである。
(皇紀2602年は西暦1942年)
だから読む者にとっては、一種、切れの味の良さ、思い切りの良さが感じととられて気持ちよく極めて痛快に読み続けることができる。また、戻って読み直さないと理解しにくいといったこともない。一語一句に無駄がなく文字で表現するということに関しては完璧なのだ。そして素晴らしいのは、ズバッと短い言葉で書き記されていてもその裏にこの人の持つ頑固さ、優しさが並列して現れ、人間としての崇高さまでが感じとれるのである。
昭和廿二年十二月新潮社発行の『ベートーヴェン』(河上徹太郎著)の「序」の文章より。
序
近世ヨーロッパ音樂を代表する音樂家は、私は矢張り十八世紀後半のドイツの四大樂聖、即ちバッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの四人であると思ふ。その中で、特にベートーヴェンが偉大である所以のものは、彼が、恰も文學に於けるゲーテの如く、全人的な音樂家であつたためだと思ってゐる。即ち意志と努力と魂の至純さのすべてを賭けて、あれだけの音樂を創造したことで、その點で彼の音樂が、素質や才能の點で彼を凌ぐ前三者の音樂よりも豊かで大きくなり得たのである。
<略>
それに元来我々外國人が、考證の點でいくら頑張った所で、既に本國の音樂學者によつて編まれた汗牛充棟のベートーヴェン傳記以上のものが書ける筈はない。うまくいつて彼等の考證を上手に繼ぎはぎした、受け売りしか出来ないのである。かかる時、私に遺された唯一の道は、彼の音樂が直接私に與へる生々しい感動に頼るのみである。そして此の感動こそ、私が生きてゐるのが確實な如く、確實なベートーヴェンの姿である。私は此の姿を唯一の頼りにして、此の傳記を書いた。成果は讀者の自由な批判を待つ許りである。
二六〇二年三月 河上徹太郎
なにかこの「序」を読んだだけで、圧倒されてしまう。県立図書館の書庫に深く眠っていたこの70年前の古書を引っ張り出し、今ここにあることすら感動ものである。
(皇紀2602年は西暦1942年)
by kirakuossan
| 2012-09-08 14:45
| 文芸
|
Trackback