2012年 05月 27日
とにかく熱かった・野沢の湯 |
2012年5月27日(日)
麻釜(湯畑)100℃、大湯・単純硫黄泉66.4℃、常盤屋の千人風呂・硫黄泉のあつ湯45℃はあろうか?(源泉の大釜は83.2℃) とにかくどこも熱い湯で迫力満点。
外湯「大湯」(上段)
浴槽が二つあって、手前で43℃ぐらい、奥の浴槽は50℃はあるようで、”湯もみ”しないととてもじゃないが入れない。部屋は薄暗く、天窓からの入光だけ。御湯の色も見分けがつきにくいが、白濁色ではなくグリーン系だろう。13ある外湯の一番で、ちょうど温泉街の中心に位置する。隣に旅館「さかや」、道路を挟んで「常盤屋旅館」の野沢温泉の二大旅館が揃う場所。平日(金)の3時すぎ頃に入浴したので、先客はひとりだけ、ゆったりと味わう事が出来た。玄関口に”寸志”と料金箱に書いてあるので、夫婦二人で100円払って入る。
「大湯」
お湯5・雰囲気5・自然度4・清潔感4・サービス4・全体評5・・・27
常盤屋旅館「千人風呂」(中・下段)
光明皇后(奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后)が仏教を厚く信仰し、悲田院や施薬院を設けて孤児や病人を救ったとして多くの逸話が残っているが、なかでも「千人風呂」は有名。当時、天然痘が猛威をふるい、多くの死者を出していたが、皇后は夢で仏のお告げを聞き、自分の屋敷に風呂を作り、貴賤を問わず1000人の人を「我自ら千人の垢を去らん」と、風呂に入れることを誓った。1000人目は肉がただれ、膿が出ている病人だったが、皇后が差別なくその病人も風呂へ導いた。すると病人は大光明を放ち、姿を消した。阿閃如来の化身であったのだ。これが「千人風呂」の起源になったとされる。なお、皇后は、このとき同じ信仰が厚かった3人の典侍(ないしのすけ=付き人)に手助けをしてもらった。人々はこの3人を三典(さんすけ)と呼び、これが「三助」の由来となったといわれている。
浴槽は3つあって、あつ湯(43℃)、ぬる湯(36℃)、中間(といっても40~42℃)とバラエティーに富んでいる。あつ湯は源泉で白濁色をしていた。もう一つ子宝「薬師の湯」があって男湯・女湯を12時間ごとに入れ替えている。
大正ロマン風の建築で、黒御影石と地元産の大鉄平石を使っていて歴史の重みを感じる。
「千人風呂」
お湯5・雰囲気5・自然度(充実度)4・清潔感4・サービス5・全体評5・・・28(過去最高得点)
麻釜(湯畑)100℃、大湯・単純硫黄泉66.4℃、常盤屋の千人風呂・硫黄泉のあつ湯45℃はあろうか?(源泉の大釜は83.2℃) とにかくどこも熱い湯で迫力満点。
外湯「大湯」(上段)
浴槽が二つあって、手前で43℃ぐらい、奥の浴槽は50℃はあるようで、”湯もみ”しないととてもじゃないが入れない。部屋は薄暗く、天窓からの入光だけ。御湯の色も見分けがつきにくいが、白濁色ではなくグリーン系だろう。13ある外湯の一番で、ちょうど温泉街の中心に位置する。隣に旅館「さかや」、道路を挟んで「常盤屋旅館」の野沢温泉の二大旅館が揃う場所。平日(金)の3時すぎ頃に入浴したので、先客はひとりだけ、ゆったりと味わう事が出来た。玄関口に”寸志”と料金箱に書いてあるので、夫婦二人で100円払って入る。
「大湯」
お湯5・雰囲気5・自然度4・清潔感4・サービス4・全体評5・・・27
常盤屋旅館「千人風呂」(中・下段)
光明皇后(奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后)が仏教を厚く信仰し、悲田院や施薬院を設けて孤児や病人を救ったとして多くの逸話が残っているが、なかでも「千人風呂」は有名。当時、天然痘が猛威をふるい、多くの死者を出していたが、皇后は夢で仏のお告げを聞き、自分の屋敷に風呂を作り、貴賤を問わず1000人の人を「我自ら千人の垢を去らん」と、風呂に入れることを誓った。1000人目は肉がただれ、膿が出ている病人だったが、皇后が差別なくその病人も風呂へ導いた。すると病人は大光明を放ち、姿を消した。阿閃如来の化身であったのだ。これが「千人風呂」の起源になったとされる。なお、皇后は、このとき同じ信仰が厚かった3人の典侍(ないしのすけ=付き人)に手助けをしてもらった。人々はこの3人を三典(さんすけ)と呼び、これが「三助」の由来となったといわれている。
浴槽は3つあって、あつ湯(43℃)、ぬる湯(36℃)、中間(といっても40~42℃)とバラエティーに富んでいる。あつ湯は源泉で白濁色をしていた。もう一つ子宝「薬師の湯」があって男湯・女湯を12時間ごとに入れ替えている。
大正ロマン風の建築で、黒御影石と地元産の大鉄平石を使っていて歴史の重みを感じる。
「千人風呂」
お湯5・雰囲気5・自然度(充実度)4・清潔感4・サービス5・全体評5・・・28(過去最高得点)
by kirakuossan
| 2012-05-27 21:36
| 温泉♨
|
Trackback