2012年 01月 08日
純粋なる静寂...早世の画家・犬塚勉 |
2012年1月8日(日)
孫を送っていった帰り、かみさんと別れて、京都・高島屋へ「犬塚勉展」を見に行く。
犬塚勉(1949~1988)は東京の多摩で育ち、美術教師として働きながら、山の風景を描き続けた。1988年、制作のために登った谷川岳で遭難し、38歳で惜しくも亡くなった。約110点の作品を見ていくと、彼の画家としての変遷が良く分かる。1976年に東京学芸大学大学院を卒業するが、在学中のノートに”絵を描くことについて”こう記している。
「緊密で、無限の複雑さをきわめてすっきり単純化しており、一点一角もゆるがせずにできぬもの」と
このことは生涯一貫したものであったが、この頃は、群像や壁、門、羊といったモティーフを描いている。
ラトゥールやフェルメールの色調を目標にしていて、青やグレーなどの落ち着いた色彩で極めて静的な作風と云える。
1979年6月のノートには、「たそがれのなかあの自然と等しく重さのある美を絵画として実現すること」を目標にするとある。
この頃より登山に目覚め、のめりこんで行く。また、多摩の風景を多く描いたが、夕暮れ時の、紫がかった景観で見る者を引き込むが、だんだんと実際の風景より幻想的な雰囲気が色濃く出るようになる。
多摩の風景と並行して描かれたものに「仏教」を題材にした作品がある。
1981年頃より観音像や飛天、仏像が繰り返し描かれる。この「観世音」の画などを実際に見ると、自然と心休まり、無我の境地に入りこめそうなほど一種の”凄み”が感じとれる。この絵1枚を見ただけでも彼の才能が非凡であることがうかがえる。また、83年頃には、「不可思議な絵を描きたい」「人智を超え、大自然を新鮮なまなざしで見つめなおした世界」を構築しようとする。
この83年から84年、彼が34歳から35歳にかけてが大きな転機となる。入院も体験し、「一度死んだと思うべきだ」とし、今までの古いデッサンを処分し、自らを省みるのである。
「追究が不足し、作品への執念のようなものが皆無である。何年もの長きにわたって、中途半端な努力を繰り返し、迫力ある作品がないことに気づく」
そしていよいよ彼の画風確立へ向かうことになる。そのきっかけになった作品が次の「頂きB」である。
”写実画”への始まりである。
「ナチュラリティとリアリティ」という言葉で表現されるひとつの方向へ向かうこととなる。
「写実画」
彼が、35歳にして辿り着いた、彼独自の画風の確立である。「描いて描いて描きこんで、自然そのままの密度に到達する」
「密度」とは、写実的な表現のために、草一本一本を描くような超緻密的な描写にによって実現する。
しかし、折角辿り着いた画風も3年後のこの作品が絶筆になってしまう。
この頃、「渓谷」を描き、「暗く深き渓谷の入口」の制作を着手しており、「もう一度、水を見てくる」と言い残し、谷川岳で遭難、永眠した。
今日、犬塚勉という天才画家の作品を目にして、久々に心底感動を覚えるものであった。絵にも相性というものがあって、”自分好みの絵”というものがある。彼の到達した写実画の作品群はまさに自分にとってそのような絵だ。
自分と同世代であることが、さらにこの天才画家を身近なものにしてくれた。
犬塚勉展
孫を送っていった帰り、かみさんと別れて、京都・高島屋へ「犬塚勉展」を見に行く。
犬塚勉(1949~1988)は東京の多摩で育ち、美術教師として働きながら、山の風景を描き続けた。1988年、制作のために登った谷川岳で遭難し、38歳で惜しくも亡くなった。約110点の作品を見ていくと、彼の画家としての変遷が良く分かる。1976年に東京学芸大学大学院を卒業するが、在学中のノートに”絵を描くことについて”こう記している。
「緊密で、無限の複雑さをきわめてすっきり単純化しており、一点一角もゆるがせずにできぬもの」と
このことは生涯一貫したものであったが、この頃は、群像や壁、門、羊といったモティーフを描いている。
ラトゥールやフェルメールの色調を目標にしていて、青やグレーなどの落ち着いた色彩で極めて静的な作風と云える。
1979年6月のノートには、「たそがれのなかあの自然と等しく重さのある美を絵画として実現すること」を目標にするとある。
この頃より登山に目覚め、のめりこんで行く。また、多摩の風景を多く描いたが、夕暮れ時の、紫がかった景観で見る者を引き込むが、だんだんと実際の風景より幻想的な雰囲気が色濃く出るようになる。
多摩の風景と並行して描かれたものに「仏教」を題材にした作品がある。
1981年頃より観音像や飛天、仏像が繰り返し描かれる。この「観世音」の画などを実際に見ると、自然と心休まり、無我の境地に入りこめそうなほど一種の”凄み”が感じとれる。この絵1枚を見ただけでも彼の才能が非凡であることがうかがえる。また、83年頃には、「不可思議な絵を描きたい」「人智を超え、大自然を新鮮なまなざしで見つめなおした世界」を構築しようとする。
この83年から84年、彼が34歳から35歳にかけてが大きな転機となる。入院も体験し、「一度死んだと思うべきだ」とし、今までの古いデッサンを処分し、自らを省みるのである。
「追究が不足し、作品への執念のようなものが皆無である。何年もの長きにわたって、中途半端な努力を繰り返し、迫力ある作品がないことに気づく」
そしていよいよ彼の画風確立へ向かうことになる。そのきっかけになった作品が次の「頂きB」である。
「ナチュラリティとリアリティ」という言葉で表現されるひとつの方向へ向かうこととなる。
「写実画」
彼が、35歳にして辿り着いた、彼独自の画風の確立である。「描いて描いて描きこんで、自然そのままの密度に到達する」
「密度」とは、写実的な表現のために、草一本一本を描くような超緻密的な描写にによって実現する。
しかし、折角辿り着いた画風も3年後のこの作品が絶筆になってしまう。
この頃、「渓谷」を描き、「暗く深き渓谷の入口」の制作を着手しており、「もう一度、水を見てくる」と言い残し、谷川岳で遭難、永眠した。
自分と同世代であることが、さらにこの天才画家を身近なものにしてくれた。
犬塚勉展
by kirakuossan
| 2012-01-08 17:16
| 美術
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