2011年 10月 22日
指揮者100選☆23 フリッチャイ |
2011年10月22日(土)
フェレンツ・フリッチャイ(Ferenc Fricsay, ハンガリー、1914/8/9~1963/2/20)ハンガリー出身の世界的な名指揮者。
僕がフリッチャイを本当の意味で知ったのはずいぶん後になってからだと記憶する。それは雑誌「レコード芸術」で紹介された時だ。チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の凄い演奏が出たといって、当時大変注目を浴びた。オーケストラはベルリン放送交響楽団。
1959年に演奏されたが、フリッチャイ本人が第1楽章を再録音したいという意向があって、長い間 ”お蔵入り”になっていた録音であった。それがフリッチャイ協会が発売を許可したため、突如、1996年に陽の目を見たというものだった。
早速買って聴いてみると、確かに精神性の奥深い、深淵に辿り着くような素晴らしい演奏であると納得したものだった。「悲愴」といえば、例のムラビンスキー・レニングラード盤が教科書的に定番になっていた。たしかにいちぶの隙もないような厳格性に満ちた最高の演奏だが、フリッチャイのはさらにその上を行くような精神性の高さが存在しているように思う。
彼は48歳という若さで世を去ったが、巨匠になる手前で病魔に襲われ、これを克服するがごとく急速に精神性を高め、音楽に幅と深みが増した。その短期間の変貌ぶりは他に例を見ないとよく言われるところである。
1948年11月、ベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)でヴェルディの「ドン・カルロ」を上演してデビュー、当時まだ学生だったバリトンのフィッシャー=ディースカウをこの時見出す。ディースカウとはその後も親しく付き合う。さらに、オイゲン・ヨッフムの代理としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を振る。1949年からはベルリン市立歌劇場の音楽監督、RIAS交響楽団の首席指揮者に就任する。1953年、ボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たす。1956年、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任、白血病で倒れる1958年まで務める。長期の休養後、1959年夏、ベルリン放送交響楽団(RIAS交響楽団から1956年に名称変更)の首席指揮者に復帰するが、1961年12月、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、ベートーヴェンの交響曲第7番を指揮し、これが生涯最後の指揮となる。
1963年、48歳の若さで亡くなり、3月のベルリン放送交響楽団による追悼コンサートでは、同い年のラファエル・クーベリックが指揮台に立った。フリッチャイの死後、フィッシャー=ディースカウがフリッチャイ協会を設立し、カール・ベームが名誉会長を務めた。
☆演奏スタイルは・・・
フルトヴェングラーの再来と呼ばれるぐらい、テンポがゆったりと幅広く、よりしなやかな大きな、深い演奏を繰り広げた。そこには音楽の持つ”純粋性”と”人間性”が再現される。
☆残した録音は・・・
ベートーヴェン
・交響曲第5番ト短調 OP.67『運命』
・交響曲第7番イ長調 OP.92
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:フェレンツ・フリッチャイ
(1961,62年録音)
ドイツ・グラモフォンに数多くの演奏を遺したが、当時、DGは彼の将来性を見込み、大いに肩入れしたふしがある。しかし、若くして亡くなったため、とん挫した。そのあとに偶然かどうか、ヘルベルト・カラヤンがDGに入り込む。運命の悪戯とはいえ、何時の時もカラヤンは運の良い巡り合わせになり、幸せを掴む。
フリッチャイは”レコード産業に乗り損ねた男”と呼ばれる。フィッシャー=ディースカウの「自伝」でこう語っている。
「フリッチャイはまた、今日では当たり前となっているマルチメディア的なものさえ作り上げていた。彼の芸術家的な”厳格な信仰”にとって、この種のコーディネートがいつの場合にも是認できるものだったかどうか、わたしには当然ながらわからない」と。
☆私見・・・
本来は、どちらかといえば地味な指揮者だと思うが、晩年の優れた演奏を耳にすると、もっともっと長く聴きたかったいう思いに駆られる。彼は1914年生まれ、僕の親父と同い年だ。
この年生まれの指揮者には、ラファエル・クーベリック(~96)のほか、キリル・コンドラシン(~81)、カルロ・マリア・ジュリーニ (~05)、アルヴィド・ヤンソンス(~84)らがおり、決して彼らにはひけをとらない巨匠になったであろうと思う。
☆Myライブラリーより・・・
チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調「悲愴」
ベルリン放送交響楽団
1959年9月、イエス・キリスト教会(ベルリン)
この演奏を残した1959年は、白血病の病魔に襲われた翌年で、長期療養後に録音されたもの。発病までと、復帰した後とでは、同一人物とは思えない程大きな解釈の違いをみせていると、評されることもある。
追記:
2013年4月9日(火)
スメタナ「モルダウ」
フェレンツ・フリッチャイ(Ferenc Fricsay, ハンガリー、1914/8/9~1963/2/20)ハンガリー出身の世界的な名指揮者。
僕がフリッチャイを本当の意味で知ったのはずいぶん後になってからだと記憶する。それは雑誌「レコード芸術」で紹介された時だ。チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の凄い演奏が出たといって、当時大変注目を浴びた。オーケストラはベルリン放送交響楽団。
1959年に演奏されたが、フリッチャイ本人が第1楽章を再録音したいという意向があって、長い間 ”お蔵入り”になっていた録音であった。それがフリッチャイ協会が発売を許可したため、突如、1996年に陽の目を見たというものだった。
早速買って聴いてみると、確かに精神性の奥深い、深淵に辿り着くような素晴らしい演奏であると納得したものだった。「悲愴」といえば、例のムラビンスキー・レニングラード盤が教科書的に定番になっていた。たしかにいちぶの隙もないような厳格性に満ちた最高の演奏だが、フリッチャイのはさらにその上を行くような精神性の高さが存在しているように思う。
彼は48歳という若さで世を去ったが、巨匠になる手前で病魔に襲われ、これを克服するがごとく急速に精神性を高め、音楽に幅と深みが増した。その短期間の変貌ぶりは他に例を見ないとよく言われるところである。
1948年11月、ベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)でヴェルディの「ドン・カルロ」を上演してデビュー、当時まだ学生だったバリトンのフィッシャー=ディースカウをこの時見出す。ディースカウとはその後も親しく付き合う。さらに、オイゲン・ヨッフムの代理としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を振る。1949年からはベルリン市立歌劇場の音楽監督、RIAS交響楽団の首席指揮者に就任する。1953年、ボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たす。1956年、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任、白血病で倒れる1958年まで務める。長期の休養後、1959年夏、ベルリン放送交響楽団(RIAS交響楽団から1956年に名称変更)の首席指揮者に復帰するが、1961年12月、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、ベートーヴェンの交響曲第7番を指揮し、これが生涯最後の指揮となる。
1963年、48歳の若さで亡くなり、3月のベルリン放送交響楽団による追悼コンサートでは、同い年のラファエル・クーベリックが指揮台に立った。フリッチャイの死後、フィッシャー=ディースカウがフリッチャイ協会を設立し、カール・ベームが名誉会長を務めた。
☆演奏スタイルは・・・
フルトヴェングラーの再来と呼ばれるぐらい、テンポがゆったりと幅広く、よりしなやかな大きな、深い演奏を繰り広げた。そこには音楽の持つ”純粋性”と”人間性”が再現される。
☆残した録音は・・・
ベートーヴェン
・交響曲第5番ト短調 OP.67『運命』
・交響曲第7番イ長調 OP.92
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:フェレンツ・フリッチャイ
(1961,62年録音)
ドイツ・グラモフォンに数多くの演奏を遺したが、当時、DGは彼の将来性を見込み、大いに肩入れしたふしがある。しかし、若くして亡くなったため、とん挫した。そのあとに偶然かどうか、ヘルベルト・カラヤンがDGに入り込む。運命の悪戯とはいえ、何時の時もカラヤンは運の良い巡り合わせになり、幸せを掴む。
フリッチャイは”レコード産業に乗り損ねた男”と呼ばれる。フィッシャー=ディースカウの「自伝」でこう語っている。
「フリッチャイはまた、今日では当たり前となっているマルチメディア的なものさえ作り上げていた。彼の芸術家的な”厳格な信仰”にとって、この種のコーディネートがいつの場合にも是認できるものだったかどうか、わたしには当然ながらわからない」と。
☆私見・・・
本来は、どちらかといえば地味な指揮者だと思うが、晩年の優れた演奏を耳にすると、もっともっと長く聴きたかったいう思いに駆られる。彼は1914年生まれ、僕の親父と同い年だ。
この年生まれの指揮者には、ラファエル・クーベリック(~96)のほか、キリル・コンドラシン(~81)、カルロ・マリア・ジュリーニ (~05)、アルヴィド・ヤンソンス(~84)らがおり、決して彼らにはひけをとらない巨匠になったであろうと思う。
☆Myライブラリーより・・・
チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調「悲愴」
ベルリン放送交響楽団
1959年9月、イエス・キリスト教会(ベルリン)
この演奏を残した1959年は、白血病の病魔に襲われた翌年で、長期療養後に録音されたもの。発病までと、復帰した後とでは、同一人物とは思えない程大きな解釈の違いをみせていると、評されることもある。
追記:
2013年4月9日(火)
スメタナ「モルダウ」
by kirakuossan
| 2011-10-22 10:00
| 指揮者100選(完)
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