2012年5月24日(木)
安土桃山から江戸時代初期にかけての武将に福島正則(1561~1624)がいる。彼は「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴で武骨者として取り扱われているが、実際の人柄は別のところにもあったようである。
日経の春秋欄に「黒田節」の話が載っており、使者として訪れた黒田長政の臣下・母里友信に執拗に酒を勧める武将、福島正則のことが語られているが、彼は確かに酒にまつわる逸話が多い。僕の愛飲する近江の酒の名ではないが、賤ヶ岳の戦いで名高い”七本槍”のひとりに数えられ、一番槍・一番首として名を馳せ、最大の働きをしたことで以前より知っていた。また、このゴールデンウイークに信州の高山村温泉郷に行ってきたが、彼はこの地で亡くなったという事もその時知った。
最近、よく目にする彼のことが気になり、少し調べて見たくなった。彼の人柄は多く残っている逸話の中から知ることが出来る。
秀吉が秀次に切腹を命じた時、検死役に命じられ高野山へ出向く。覚悟を決めて剃髪入道の姿で現れた秀次に対して同行の福原長尭は上使をかさにきて横柄な態度を示したため、秀次の怒りを招いたとされるが、正則は、人の世のはかなさを感じてはらはらと涙を流した、という。そこで高野山の僧たちが秀吉の翻意を求める動きを示すと、正則は毅然として「まず、我らを衆徒の手にかけた上で、言上されたらよろしかろう」と居直り、これには高野山衆徒らも施す術もなかった。ここで彼の”思いやりとケジメ”の一端が覗える。
ある時、家臣が主命により御酒を積んで江戸まで行く途中、漂流して八丈島に着いてしまう。そこでひとりの痩せ細った老人に出会い、正則の家臣と名乗ると、老人はにっこりと笑い、その酒を少し分けよ、一杯傾けて故郷を懐かしみたい、と云う。その老人こそが、正則が関ヶ原で一戦を交わした宇喜多中納言秀家のなれの果てであった。家臣たちは迷った挙句 「おいたわしく思いましたので、たくさんの樽より少しづつ抜いて献上すれば分らないとも思いましたけれども、それもあまりに汚き所業と思い、お叱りを受けるのを覚悟で御酒一樽と持ち合わせた干魚を添えて差し上げてまいりました。」という。
これを聴いた正則は涙し、大声で「でかしたり!昔を思えばお気の毒なことじゃ、一樽とはでかしたりでかしたり。」と膝を叩いて大いに喜んだ。これなどは”おとこ気”がにじみ出た逸話だ。
また彼には滑稽な話も残っている。浮気をして帰って来た正則のもとに正妻が怒って門まで槍を携えて出てきた。これを見た正則は驚き、逃げ惑った。「わしは若い頃より百度闘って、敵に後ろを見せた事は一度も無かったが今度ばかりはとうとう敵に背を見せてしまった。女子の情の怖いことよ。」といった。”微笑ましい”一面だ。
そして彼の人となりを適確に言いあらわしたことがある。
彼は決してキリシタンになることはなかったが、尾張、広島ではキリシタンを手厚く保護し、また家臣団にも著名なキリシタンの者が多かった。そこでの宣教師らは正則のことを「賢才にして沈静なる人」と讃えたという。
そんな彼は領主として行政面でも多くの結果を残していて、武力とともに統治力を兼ね備えた武将であった。しかし、その後領主広島城の修復をめぐり、幕府といざこざになり結局、広島49万石から信濃川中島4万5千石と1/10の規模に減封されてしまう。戦国時代の猛将も関ヶ原合戦を境に大阪の陣では家康に牽制されるようになり、晩年はこのように信濃上高井郡に幽閉されて世を終えることになる。
そして亡くなった時、幕府の使者が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬したため福島家は残りの2万石も没収され、ついには正則の子・正利は3,000石の旗本に身分を落とすこととなってしまった。(一説には、正則が自決したのを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われている)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「七本槍」 福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の七人。
1583年に近江・伊香郡(現・長浜市)の賤ヶ岳附近で秀吉と柴田勝家との間で繰り広げられた「賤ヶ岳の戦い」において、秀吉側の家臣で功名をあげた7人の武将を賤ヶ岳の七本槍と呼ぶ。これは秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいわれ、福島正則は「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられていて面白い。また、脇坂安治は七本槍の中で最年長の武将で、官位が従五位上・中務少輔の時に京都・伏見の宇治川支流の島のような場所に下屋敷を構えた。中務少輔を唐名で「中書」と呼んだことから、脇坂には「中書(ちゅうじょう)さま」という別名がつき、下屋敷のあった一帯を「中書島」と呼ぶようになったそうだ。この脇坂を除く大半が徳川政権になって御家取り潰しなどに遭った。
また、「七本槍」は賤ヶ岳だけでなく、関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる上田合戦の上田七本槍(徳川氏家臣)、蟹江城攻めの蟹江七本槍(松平広忠の家臣7人衆)、小豆坂の戦いの小豆坂七本槍(織田の7勇士)らがあるらしい。
安土桃山から江戸時代初期にかけての武将に福島正則(1561~1624)がいる。彼は「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴で武骨者として取り扱われているが、実際の人柄は別のところにもあったようである。日経の春秋欄に「黒田節」の話が載っており、使者として訪れた黒田長政の臣下・母里友信に執拗に酒を勧める武将、福島正則のことが語られているが、彼は確かに酒にまつわる逸話が多い。僕の愛飲する近江の酒の名ではないが、賤ヶ岳の戦いで名高い”七本槍”のひとりに数えられ、一番槍・一番首として名を馳せ、最大の働きをしたことで以前より知っていた。また、このゴールデンウイークに信州の高山村温泉郷に行ってきたが、彼はこの地で亡くなったという事もその時知った。
最近、よく目にする彼のことが気になり、少し調べて見たくなった。彼の人柄は多く残っている逸話の中から知ることが出来る。
秀吉が秀次に切腹を命じた時、検死役に命じられ高野山へ出向く。覚悟を決めて剃髪入道の姿で現れた秀次に対して同行の福原長尭は上使をかさにきて横柄な態度を示したため、秀次の怒りを招いたとされるが、正則は、人の世のはかなさを感じてはらはらと涙を流した、という。そこで高野山の僧たちが秀吉の翻意を求める動きを示すと、正則は毅然として「まず、我らを衆徒の手にかけた上で、言上されたらよろしかろう」と居直り、これには高野山衆徒らも施す術もなかった。ここで彼の”思いやりとケジメ”の一端が覗える。
ある時、家臣が主命により御酒を積んで江戸まで行く途中、漂流して八丈島に着いてしまう。そこでひとりの痩せ細った老人に出会い、正則の家臣と名乗ると、老人はにっこりと笑い、その酒を少し分けよ、一杯傾けて故郷を懐かしみたい、と云う。その老人こそが、正則が関ヶ原で一戦を交わした宇喜多中納言秀家のなれの果てであった。家臣たちは迷った挙句 「おいたわしく思いましたので、たくさんの樽より少しづつ抜いて献上すれば分らないとも思いましたけれども、それもあまりに汚き所業と思い、お叱りを受けるのを覚悟で御酒一樽と持ち合わせた干魚を添えて差し上げてまいりました。」という。
これを聴いた正則は涙し、大声で「でかしたり!昔を思えばお気の毒なことじゃ、一樽とはでかしたりでかしたり。」と膝を叩いて大いに喜んだ。これなどは”おとこ気”がにじみ出た逸話だ。
また彼には滑稽な話も残っている。浮気をして帰って来た正則のもとに正妻が怒って門まで槍を携えて出てきた。これを見た正則は驚き、逃げ惑った。「わしは若い頃より百度闘って、敵に後ろを見せた事は一度も無かったが今度ばかりはとうとう敵に背を見せてしまった。女子の情の怖いことよ。」といった。”微笑ましい”一面だ。
そして彼の人となりを適確に言いあらわしたことがある。
彼は決してキリシタンになることはなかったが、尾張、広島ではキリシタンを手厚く保護し、また家臣団にも著名なキリシタンの者が多かった。そこでの宣教師らは正則のことを「賢才にして沈静なる人」と讃えたという。
そんな彼は領主として行政面でも多くの結果を残していて、武力とともに統治力を兼ね備えた武将であった。しかし、その後領主広島城の修復をめぐり、幕府といざこざになり結局、広島49万石から信濃川中島4万5千石と1/10の規模に減封されてしまう。戦国時代の猛将も関ヶ原合戦を境に大阪の陣では家康に牽制されるようになり、晩年はこのように信濃上高井郡に幽閉されて世を終えることになる。そして亡くなった時、幕府の使者が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬したため福島家は残りの2万石も没収され、ついには正則の子・正利は3,000石の旗本に身分を落とすこととなってしまった。(一説には、正則が自決したのを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われている)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「七本槍」 福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の七人。
1583年に近江・伊香郡(現・長浜市)の賤ヶ岳附近で秀吉と柴田勝家との間で繰り広げられた「賤ヶ岳の戦い」において、秀吉側の家臣で功名をあげた7人の武将を賤ヶ岳の七本槍と呼ぶ。これは秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいわれ、福島正則は「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられていて面白い。また、脇坂安治は七本槍の中で最年長の武将で、官位が従五位上・中務少輔の時に京都・伏見の宇治川支流の島のような場所に下屋敷を構えた。中務少輔を唐名で「中書」と呼んだことから、脇坂には「中書(ちゅうじょう)さま」という別名がつき、下屋敷のあった一帯を「中書島」と呼ぶようになったそうだ。この脇坂を除く大半が徳川政権になって御家取り潰しなどに遭った。
また、「七本槍」は賤ヶ岳だけでなく、関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる上田合戦の上田七本槍(徳川氏家臣)、蟹江城攻めの蟹江七本槍(松平広忠の家臣7人衆)、小豆坂の戦いの小豆坂七本槍(織田の7勇士)らがあるらしい。









かみさん曰く・・・「この豆、袋は紫色、豆はグリーン色、ご飯が炊きあがった時は米粒が白色やのに、4.5時間むらすと紫色になったわ。それとジャムにするといつまでもグリーンのままやった。不思議な豆やわ」
工事の竣工は2月の
雨模様の空に和太鼓が響く中、式典が始まり、東武鉄道の根津社長が「木(ツリー)の育成には水が必要。今日の雨は大きく育っていく恵みの雨です。末永くご愛顧を」と挨拶し、地元出身の王貞治氏らがテープカットし、開業を祝った。初日の入場券を勝ち得た人は

二桁上昇のもの
二桁下落のもの
無性にカレーが欲しくなり、この前買っておいた”ミニ玉ねぎ”を使い、即席




「20年間相撲をやって本当によかったとつくづく思いました」
にか戦わずして優勝するとは何事か、といったファン心理も重なり複雑な心境になったはず。最後になって一番冷静だったのは、もっとも優勝から遠いと思われていた旭天鵬だった。本割で苦手・豪栄道を危機一髪踏ん張って勝ち、決定戦で栃煌山に押し込まれたが冷静にかわした。


ドイツの世界的バリトン歌手の
雑誌を買いに行ったついでに量販店へ立ち寄り、ついつい見ているうちに、

東京スカイツリーが見える最も遠い場所は、北に229kmの福島県・吾妻連峰。







開催日時 : 2012年6月29日(金)
目ざまし時計、携帯電話充電器、老眼鏡、波型包丁(豆腐切り)、白い陶器大皿、竹笊、毛抜き(日本製)、写真立て、木箱小物入れ、写真スナップ帳、味噌掻き混ぜ用ざる。
逆に、今までに買った中での失敗は、
連作交響詩
チェコ音楽としての記念碑的な作品を創作する決意は数年前から固めていて、当初は「ヴィシェフラド」、「ヴルタヴァ」、「リパニー」などの5つの地名を各曲の題名として構想していたが、最終的に6曲となった。この曲が広く知れ渡るきっかけになったのは、毎年行なわれる「プラハの春」音楽祭のオープニング曲として演奏されることからもきているのだろう。



